鎌倉時代頃の武蔵野台地(大田区部分)江戸時代以前

古代から鎌倉街道の詳細
・・・江戸から昭和頃までの街道
地図イラスト
 台地(下末吉面)・30〜40M  斜面・10〜20M
 台地(武蔵野面)・20〜30M  谷底低地・10M
 砂州  自然堤防
 氾濫源、三角州、海岸低地・0〜10M  開拓地、埋立地、盛土地
 旧河川、多摩川、呑川  埋立地は昭和島、京浜島、 城南島

ー大田区を構成する道と武蔵野台地の特徴ー

武蔵野台地の北部・西部 は先端部にあたる荏原台・多摩川台である。多摩川の右岸沿いと東部は沖積低地である。人の住む台地の一番高い所は田園調布付近で海抜42.5メートル程である。山王・馬込・本門寺の高台は25〜35メートルほどである、久が原あたりの台地底部でも15メートルほどある。そこから海に向かい傾斜して低くなってゆく、平間街道の海側は海抜3〜4メートルほどである。平安末期には平間街道脇まで海岸線であった。
 
  大田区の面積は59.46平方キロメートルである。上記の地図で分かるように、武蔵野台地と海岸低地にほぼ二分されている。その境に位置するのが、中央白丸の「池上本門寺」である。河川は、現在の多摩川と、ほぼ中央を流れる呑川(古多摩川、13万年前頃)である。多摩川は暴れ川であり、記号-B 側の水色部分は、古い多摩川の蛇行部分である。江戸時代より埋められて現在は見ることは出来ない。「新田神社」の脇まで多摩川は蛇行していた。(大田区の河川) また北馬込夫婦坂付近の湧水を水源とする内川があった。のちに内川は暗渠化された。

多摩川の「渡し」は、鎌倉時代から江戸期時代に成立し、一部は昭和初期頃まで使われた(大田区の渡し)。主に日蓮宗講中が造った道標がその証拠である。(大田区の道標) 

奈良・平安末期の街道、京から相模・武蔵野国へ古街道 
 
  奥州合戦(1189年)で平泉に向かう24万の大軍が行軍した街道は、鎌倉からの三本の道である(参照『吾妻鏡』1190.07.17)。頼朝は、奥州合戦を先祖・源頼義親子の「前9年・後三年の役」合戦の忠実な再現とし日時・経路を定めたという。源頼義・義家親子がわずか500から1000人の兵を率いて奥州を目指した。古東海道(下道)を頼朝は主力の道の一つとして決定し、数十万の軍勢を送ったのである。この合戦の成功により、奥州を得た源頼朝の鎌倉幕府は安定に向かい、朝廷と対等の交渉が可能になった。頼朝の鎌倉幕府が成立すると、奥州平泉は源頼朝の支配するところと成り、恩賞として東国の御家人に与えられた。下道は奥州と鎌倉を結ぶ重要な街道となった。鎌倉に送られる 物資・人の往来で賑わったことであろう。

《大田区の古い街道と名称……鎌倉時代より》

番号ー1、下道・旧池上道(平間街道・旧東海道) 「吾妻鏡」に記載された平間郷地頭
 
  江戸時代、東海道が造られる前の東海道は番号ー1の「旧池上道」である。その別名は「下道・平間道」、品川まで行けることから「品川道」とも言われている。 多摩川を番号ーBの「平間の渡し」で渡る。また『延喜式』の記載では、沼部まで行き「丸子の渡し」(番号ーA)を越えたらしい。多摩川沿いに道があったのではないか。この道は鎌倉までつながり、今も残る平間街道は鎌倉幕府から「下ノ道」と言われた重要な街道であった。大田区からは山王を越え、大井三つ叉をすぎ、南品川を経て高輪までつながっていた。現在の国技館あたりより曲がり、遠くは奥州まで繋がっていたので「奥州街道」とも言われたという。

鎌倉街道とは、鎌倉から進発する上道、中道、下道
 
  鎌倉から見ると多摩川は、鎌倉を守る重要な防衛ラインであった。我々が考える以上に鎌倉に通じる道の守りは堅い、鎌倉へ近寄せないため川の防衛は大事であった。多摩川の渡河する地点が少なく、その一つが「平間の渡し」であったと考える。多摩川沿いは鎌倉幕府との結び付きが強い、鎌倉の伝承が多いのはそのためである。大田区の寺や神社は、鎌倉時代に創建されたものが多い事が証明している。千束八幡神社 六郷神社八幡太郎義家と六郷神社また大田神社には那須与一伝承がある。


番号ー2、中原街道(中道・中路)は吾妻鏡の「中路」である。

 中原街道
は虎ノ門から平塚まで行けた。この道も鎌倉街道のひとつであった。丸子の渡しから川崎の小杉まで古い東海道と一致していた。日蓮上人や徳川家康もこの道を通り武蔵野(荏原郡荏原村)に入った。中原街道の名称になったのは、1604年に江戸幕府により整備されたからである、それまでは「奥大道、相州街道、東海道」などとも呼ばれた。多摩川の渡しは「丸子の渡し」(番号ーA)である。

(注)奥大道とは大田区の中原街道である、鎌倉時代は「中路」と呼ばれて、奥州征伐に向かう源頼朝が進軍した街道である。


番号ー3、田無街道(澤田道)
 
  池上道から臼田坂を登り、荏原町、目黒、三軒茶屋、田無まで繋がっていた古い嶺道である。古い地図では「目黒より池上道」となって いる。地元では「田無街道」や「澤田道」とも言われたらしい。池上道と中原街道をつなぐ古い道で、東京府の府道56号となっていた。荏 原町あたりから中原街道につながり、駒沢、世田谷を経て田無に至る。(参照・「入新井町史」昭和2年(1927) 入新井町史編纂部刊)大田区史の記述では、上記の田無街道を「大森田無線」と紹介している。

  大森美原通りを起点として池上通りへ池上通りをさらに西に、現大田区役所前(文化の森)より臼田坂を登って進み、現在の第二京浜 国道を横切り、荏原町駅手前の 大井玉川線(品川道)(都106号)に出る(参照・道標)。この五叉道を北西に曲がり、目黒区に抜け、世田谷区の東部に進むというルートもあった。「大田区史」大田区史編さん委員会編集 大田区発行 平成4年(1992)

番号ー4、目黒道(第二池上道)
 
  池上本門寺の「総門」から左に裾野にそって行く道も「目黒不動にゆく池上道(目黒道)」である。この道は東京府では重要な道で、府道66号線となっている。日蓮宗の各寺を横に見ながら第二京浜国道(現・第一国道)を越えて進む、古い呑川低地を日蓮宗「林昌寺」「子安八幡神社」をすぎると新幹線ガードが見える、ここ手前を左に曲がると呑川の「道々橋」を渡り鵜ノ木方向に行ける。この道は「鵜ノ木・新田道」と言われ「道々橋八幡社」の前の道である。「長慶寺」脇の嶺道は都立荏原病院のバス通りで「雪が谷の屋根道」と言われ耕地整理後の新しい道である。旧道は「長慶寺」の後ろにある、古くは九品仏まで行けたが、現在は中原街道で行き止まりとなっている。 この嶺道方向に曲がらず、真っ直ぐ新幹線のガードを潜ると、池上道は すぐに二股になり、右の猿坂を登り、第二京浜国道から馬込中学校わきから続く嶺道に出る。環七「夫婦坂」を経て右に曲がる、荏原町入り口の道標を越えて「目黒不動」までつながっていた。そのため通称「目黒道」とも言われたらしい。

番号ー6、筏道(多摩川の土手道)
 
  江戸時代には「筏道」と言われた、多摩川土手沿いの古道である。青梅から筏流しで羽田まで来た「乗子(のりこ)」は、次の日に歩い て青梅まで帰った道である。いつ頃からの道か分からないが川沿いに道があるのは自然で、羽田近辺には「行方水軍」の伝承があることか
ら古く鎌倉時代からあったのではないかと考えられる。
 
  昭和28年(1953)発行の『大田区史』に添付の「土木概要図」では、この道は指定府県道17号となっている。ここからも「池上道」へ 行ける道があり、府県道103号と言われ堤方町あたりでつながった。今も当時の雰囲気を残しているのは、鵜ノ木八幡社前の道である。