鎌倉からの「下ノ道」は「平間の渡し」で多摩川を渡る

鎌倉街道の渡し場「平間の渡し」はどこにあったのか

古鎌倉街道である池上道は、「相州鎌倉道」とか「平間街道」などと言われました。多摩川の渡しを『平間の渡し』と言うことは文献では確認できますが、いつまで使われたのか、何処のあったのかハッキリ確認することは出来ませんでした。地元でも平間街道を知りません。しかし古い地図を年代別に見ていくと実在した証拠が見つかりました。
 
1番目は、明治11年(1878)に作られた『実測東京府下改正区画郡区町村明細図』(明治11年(1878)12月・郷土博物館蔵)で、中原街道の『丸子の渡し』と平間街道の『平間の渡し』が川を渡る舟の形(地図記号)でハッキリと描かれていました。明治になり地図記号が制定され、渡しの記号は「舟の形」と決められました。地図は『大田の史話』大田区史編纂主任専門委員編 大田区発行の付録としてついていたものです。(下の写真)

2番目は大正末期の地図である。(下の図カラー)アップの写真で分かるようにハッキリと『平間の渡し』とある。(東京郊外荏原郡・豊多摩郡全地図 部分 大正14年 成蹊堂発行 大田区立郷土博物館蔵)

別の資料によれば、『ガス橋は1931年(昭和6年)にガス管専用の橋として作られた。1960年に自動車も通れるように改修された。昭和初期の地形図にはガス橋とともに『平間渡し』(人馬渡の記号)がそのすぐ下流側に同居している。』とある。(『多摩川絵図』今昔―源流から河口まで 今尾恵介著 (株)けやき出版 2001年)

別の資料によれば、ガス橋の開通は昭和4年(1929)で、住民の要望により人やリヤカーも渡れる人道橋になったのが、昭和6年(1931)頃だという。(大森蒲田ことがら事典より)

『大正14〜15年の頃は、多摩川には橋はなく「下丸子の渡し」があった。東海道の六郷橋は木造の橋でした。下丸子の渡舟は、渡舟料大人五銭、大八車十銭でした』(『区民の文化と遺産 調べて見たくて』三木邦光著 私家本)
ここで言う「下丸子の渡し」は「平間の渡し」のことである。後にガス橋の改修により舟の必要はなくなり、「平間渡し」はその役割を終えたのであろう。



上の地図は明治11年(1878)の製作である。下の地図と比べると多摩川の流れが変わっている。古市場の所で蛇行していた流れが、下の地図ではほぼ真っ直ぐに近い、堀を作り流れを変えたのであろう。
 また、右の地図では切られて見えないが、ガス橋は神社の位置から「平間の渡し」の所に作られたことが確認できる。アップを参照 拡大表示
地図写真

平間の渡し……川に描かれた舟のマーク
東京郊外荏原郡・豊多摩郡全地図」部分 大正14年(1925) 成蹊堂発行 大田区立郷土博物館蔵

平間街道の役割について…明治以降
 
  平間街道は近郷の農家が野菜を市場に運ぶため、大八車や牛車に積んで運んだ道である。池上本門寺参道入口にある酒屋「万屋」のあたりは、商屋が建ち並び、池上警察署あたりまで町並みがあったと言う。昔は松林があり、池上本門寺参道から第二京浜品国道までの道は、松林で「千本松」と呼ばれていた。万灯行列・詳細


反対の大森方向は、途中に寂しい場所があり、子母沢原(シモサッパラ)と呼ばれていた。この道を明治末から大正にかけて、大森駅から池上本門寺までの馬車が通っていた。(参考「古老聞書」大田区教育委員会 )