平間の渡しは後年「丸子の渡し」に吸収され、ひとつになったのではないか

六郷の渡し古地図 
〈平間の渡しと光明寺〉

調べてみると家康が幕府を開く前は、鎌倉より「下ノ道」と呼ばれた街道を通り、多摩川を「平間の渡し」で越え、古池上道(相州街道)から池上本門寺の脇をすぎ南品川に向かったようです。そのため、この街道を「古池上道」又は「鎌倉道」(相州鎌倉道)とも呼んだようです。

多摩川の流路は何度も大きく変わり、新田義興謀殺の頃、光明寺池は多摩川の河原であったという。平間街道(古池上道)から来た人々は、ここから『『平間の渡し』に向かい鎌倉方向に行くのと、新田神社を過ぎ『矢口の渡し』にいく道に分かれたと考えられる。
 下の地図、右中央の赤い線が平間街道で変則的な五差路である。右上に行く赤い道が洗足池方向で「相州中原道」に出る。黒い線に平行してある道は『矢口渡し』へつながる。平行する黒い線は昔の堤防跡である、このことからも、川がここまで迫っていたことが分かる。 左下への赤い道は『平間の渡し』に行く平間街道である。平間の渡し古地図

光明寺は、現在より規模の大きな寺であったらしい。『寺領の広さは大変なもので、現在の池上道り堤方橋近くに千本松があり、そこから参道が始まったという。今の千鳥町を通り、南久が原2丁目と鵜の木1丁目が境内であった』(「区民の文化と遺産 調べてみたくて」三木邦光著 私家本)

 光明寺は徳川家とのつながりも強く、雷よけの民間信仰『雷留観音信仰』があり、江戸時代には大変賑わったようだ。新田神社と同様に祭礼の時などに渡しは、対岸から来る人で大変賑わった。
 
  私見であるが、「平間の渡し」と「矢口渡し」は、街道の渡し場と言うよりは、江戸からの行楽人や地域の住民のために使用された「渡し」であったと言えそうだ。また、下の地図では矢口の渡しが見えない、矢口の渡しは、あとから出来た渡しかも知れない。
 
荏原郡全図の部分 大田区史編纂室蔵 明治19年(1886)

写真は前ページの地図の部分である。「平間の渡し」の名前が確認できる行楽用の地図である。地図には「平間の渡し」と「六郷の渡し」しか記載されていない。重要な渡しのみ書き入れたのではないか。

上の地図(古地図)
 あまり精緻な地図とはいえないが、かえって分かりやすい。黒い線は古多摩川の堤防跡、光明寺から多摩川までは低地で、古くは川床であった。
  新田神社の横には、多摩川の流れがあったという。古い堤防(黒い線)がそのことを示している。光明寺から「平間の渡し」に向かい、多摩川を越えると中平間村、下平間村になった。今でも地名に残っている。平間村は赤穂浪士の大石一行が江戸に入る前に10日ほど滞在したことで有名である。遺品も残されており、ゆかりの称名寺では討ち入りの日に公開される。詳細は川崎市ホームページへ。称名寺と赤穂浪士について
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