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●多摩川に渡しはいくつあるのか?……… |
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■多摩川の「渡し」は、上流の青梅から羽田付近まで41カ所ありました。大田区に含まれるのは、丸子から東京湾河口の羽田までの7カ所です。 東京湾河口(川下)から「羽田の渡し」「大師の渡し」「六郷の渡し」「小向の渡し」「古市場(矢口渡し)」「平間(上平間)の渡し」「丸子の渡し(上丸子)」です。大田区から出るようになりますが、作業渡しの「下野毛の渡し」、「二子の渡し」がありました。これ以外にも水量が少なくなる冬場だけの「渡し」や、対岸の農地に行く「作場渡し」という小規模の渡しがあったと考えられています。イラスト拡大表示 これら7カ所(大田区)の渡しの中でも官許(幕府の管轄する渡し)は、東海道の渡しである「六郷の渡し」しかありません。幕府から渡船料がきめられており、幕府の役人や女性、武士、僧侶などは無料とされました。それら無料の人は全体の3割から4割を占めたと言われています。 |
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●渡しに使用された船について………六郷の渡しに使われた船について |
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長崎大学図書館所蔵 ■船の大きさ 「歩行船」で長さ4間(7.2メートル)、幅一間半(2.7メートル)、高さ一尺5寸(45センチ)が標準でした。馬も乗せられる馬船はこれより一回りほど大きかったと言います。 船底はどちらも平底の伝馬船(でんません)で、船頭は先端に鋼鉄製のカバーを付けた竿を川底に差し前に進みました。多摩川は川底に上流から運ばれた石が堆積していたため、木の竿ではすぐに削られてしまうため鋼鉄の覆い(石づき)を付けたのです。(六郷の渡し)参考・英一蝶の「渡し船」画 ■ 竿の長さ 季節ごとの水量にあわせ8メートル、6メートル、5メートルと三種類ほどあったと言います。多摩川は川幅に比べ深さは浅かったと言われています。冬場には河川敷が広くなり乗り場まで約100メートルも歩かされた「大師の渡し」のような所もありました。 ■船頭の数 二人、舳先(へさき)と艫(とも)に乗り船を動かしました。運行の時間は、朝6時(明け六ツ)から午後六時(暮れ六ツ)が基本でした、渡しにより違いがあり、「丸子の渡し」のように一晩中わたれる渡しもありました。これは中原街道が物流の道であり、新鮮な野菜などを江戸に運ぶ必要からだと思われます。川崎側から朝暗いうちから動きだし朝早くに江戸の町に入ることが求められたからでしょう。そのため、丸子の渡しには、船頭が泊まり込む常設の小屋がありました。 |
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●渡し賃はいくらか………六郷の渡しの渡し賃 | |||||||||
■渡し賃について 明治初期頃の渡し賃は、男女の大人が5厘(りん)、牛馬8厘、人力車7厘ほどでした。小さな渡しでは村人は無料でしたが、渡し賃の代わりに米や粟、稗、栗などを船頭に渡しました。水かさが増すと川止めとなり、川止めでなくとも増水の時の運行は割増料金となりました。明治になり渡しは徐々に廃止され姿を消していきました。参考『都市紀要35 近代東京の渡船と一銭蒸気』編集・発行 東京都 1991年 |
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《大田区の渡しイラスト》地図を拡大 | |||||||||
ー下記、番号の渡し名ー ●−01、羽田の渡し(六左衛門の渡し) |
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ー参考図書ー |
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●『都市紀要35 近代東京の渡船と一銭蒸気』編集・発行 東京都 1991年 ●『史話4号』六郷渡船との別れ―明治期の渡船資料― 三輪修三 ●『多摩のあゆみ28号』1982年 「多摩川流域の渡河点」内田和子 ●『六郷川』村石利夫著 有朋舎刊 1989年 ●『大田区史 下巻』大田区発行 1996年 |