徳川家康が造り、江戸から明治にかけて重要な東海道『六郷渡し』


多摩川(六郷川)と六郷の渡しについて……  
  慶長5年(1600)に徳川家康が『六郷の渡し』に橋を架けるまで、多摩川の『渡し』はどのようであったかのか。
現在の多摩川河口部左岸域は、鎌倉時代頃には国衛領で六郷保と言われた。古くは大井氏の領地と推定される鎌倉幕府の御家人であった。この領地は、足利氏により大慈恩寺(現千葉県大栄町)に寄進されたが、江戸蒲田入道に横領された。その後の変遷から、江戸氏一族が六郷一帯を治め「六郷殿」と名乗ったと見られる。しかし素性は諸説ありハッキリしない。古く河口付近は六郷川と言われ地名に「六郷」名がつくのはそのためである。後北条氏時代には、多摩川河口付近に行永弾正が支配する「後北条水軍」の基地があったらしい。そのことからも海岸沿いに土手道があったと思われる。
(土手道の参考となる写真)
  『永禄12年(1569)に江戸に攻め入った武田信玄が、品川を焼いて一転して小田原を襲うかまえをみせた。北条方は六郷の橋を焼き落として甲州勢を通さず』『小田原記』とある。『北条記』からも「六郷橋」が存在したと思われる記載があるが定かでない。


家康が建設した六郷橋……
 
  六郷橋 は千住大橋についで古く。最初の長さは百九間(198.4メートル)であったが、貞享元年(1684)に改修された、橋は4メートル長くなり、両側に高欄(擬宝珠の付いた)の付いた立派なものであった。他の橋より規模も大きく橋幅も4メートルほどであった。
橋の工事は、多摩川の流路を変える堀をほるなど大工事であった。六郷橋は両国・千住の大橋と共に「江戸三大大橋」と呼ばれた。
  しかし、早くからたびたびの洪水で破損、元禄元年(1688)の洪水で流されたのち、橋は再建されず、江戸期200年あまりを通じて「渡船渡し」となった。明治7年(1874)に鈴木左内が橋をかけるまで橋のない状態が続いたのである。

 江戸幕府が開かれたあと、東海道の開設とそれによる交通量の増大のため、重要な『渡し』になった。当初は品川から神奈川までの間(20キロ)に宿場はなかったが、寛永4年(1627)に川崎が宿駅となった。江戸期には六郷側は八幡塚村と言われた。この頃の村の人口は7500人ほどであったという。

東海道六郷渡し絵図に描かれた「六郷の渡し」
(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)

「東海道五十三次人物志 川崎」絵・歌川国芳 版元改印・吉村源太郎 衣笠房太郎
 天保14年(1843)から弘化4年(1847)ボストン美術館蔵
 

江戸名所図絵

「江戸名所図会」の描く六郷の渡し 記述では享保年間に田中丘隅が 洪水の災いを除くために橋をやめて「船渡し」にしたと書かれている。  船には船頭が後ろと左側に見える、馬が一頭、船の乗客は馬一頭と馬子、山伏、お宮参り、荷物を担いだ商人、女性を2名含んだ9名である。岸には船に呼びかける2人の男性や馬から荷物を下ろす指示をする武士が見える。英一蝶の『乗合船図』

渡船の渡し賃について……
 
  武士や僧侶などの特権階級の人たちは無料であった。渡る人間の7割は無料であったが、それでも庶民の渡し賃だけで年間500両(今に換算すると800万円ほどでしょうか)であったという。当初、渡し賃は八幡塚村の扱いであったが、不都合があり宝永6年(1709)以後、幕府は疲弊した川崎宿を助けるために渡船権を与えた。この時から、両者の渡船権を巡る争いがおこったのである。

「渡し」は幕府にとって関所である……
 
  鎌倉時代に川は敵を防ぐ防衛ラインであり、その役割は江戸時代になってもかわりわりはなかった。
渡船場は、幕府の「道中奉行」が管轄し、渡河の方法や渡賃を規定した。幕府が定めた場所に定船場(じょうふなば)が決められ、それ以外の場所での渡河は厳しく制限されたという。この話が厳格に運用されていたとすれば、『平間の渡し』や『矢口渡し』は光明寺、新田神社への参拝に利用する庶民の足としての役割が大きく、暗黙の内に許されていたのではないか。

  また、史実では、忠臣蔵の大石内蔵助一行が、幕府の目を避けるため平間村(川崎)に逗留したのち、「平間の渡し」を渡り江戸に入った。警備が緩やかであったのだろう。渡河したのち
どの道を経て江戸に入ったか定かではない。忠臣蔵の映画は古今数多くあるが、平間村の話が出てくるのはNHKの大河ドラマだけであったと記憶する。

馬船ー長さ6間半(約11.7m)幅1間2尺(約2.4m)・馬4匹乗船・水主2名・8艘を常備。
歩行船(別名・カチブネ)ー長さ6間2尺(11.4m)幅1間1尺5寸(約2.3m)・人間30名乗船・6艘を常備。


江戸時代の行楽
、江戸から日帰りの旅か一泊の旅……
 
  江戸時代の行楽は、寺社参拝を兼ねたもので荏原郡(武蔵の国)の日蓮入滅の霊場「池上本門寺」、歌舞伎で演じられる『神霊矢口渡』で知られる新田義興を祭る「新田神社」、その家来を祭る「十寄神社」、浄土宗の「光明寺」、六郷の渡し近くの「古川薬師」などである。六郷の渡しは対岸の平間寺(川崎大師)にお参りするためにも使われた。池上道も東海道と中原街道の往還に使われたり、庶民の行楽にも利用されたのである。……次のページにつづく


六郷渡しを渡河した外国人の記録……
『底の平たい舟で、馬とは別の舟で六郷川を渡った。この川は巾が100フィート(約30.5m)くらいの小さな流れで非常に浅い。我々の舟は長い竹竿であやつられ、向こう岸へ渡った。』(『幕末日本探訪記―江戸と北京』ロバート・フォーチュン 三宅馨訳、講談社学術文庫 2007年刊

浮世絵に描かれた『六郷の渡し』と玉川(多摩川)の風景。
浮世絵 浮世絵 浮世絵
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浮世絵
拡大表示 拡大表示 御上洛東街道の六郷の渡し

大田区の渡し
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