長崎から江戸まで歩き、六郷の船橋を渡った象の物語
 


幕府御用絵師・木挽町五代目・狩野古信が描く享保(きょうほう)のゾウ  
東京国立博物館蔵 

八大将軍吉宗の命令で江戸に向かうゾウ……
    享保13年(1728)6月7日、広南(いまのベトナム)から、中国の貿易商鄭大成が長崎に、牡牝(オスメス)2頭の象をつれてきた。牡は7才、牝は5才であったが、牝は上陸3ヶ月後の9月11日に死亡した。牡は長崎の十善寺にて飼育され、翌年の5月に江戸将軍家に献上されることになった。『通航一覧』より(大田区郷土博物館の「博物館ノート NO.139)


当時の書物を見ると、「菓子の甘き物を多く食い、舌の上に物を生ず、象奴療治するに適はず」(『象志』)とあり、雌はそのためか死亡する。

『江戸名所図絵』4巻に象が祭られた明王山宝仙寺が載っている、また天皇上覧のため、象に官位を送った伝承も記載されている。……   資料によれば、牝象の死亡は享保13年(1728)9月11日であること、通訳官と象使い2名が付いていること、長崎を享保14年(1729)3月13日に長崎を出発、4月16日に大阪、4月26日に京都到着。京都では中御門天皇の上覧があった。

この時、上覧には官位が必要なことから、象に『広南従四位白象』の官位が与えられた。この説は江戸名所図会だけの記載であり、享保14年当時の他資料には記載されていない、象見物について詳しい貴族烏丸光栄の『光栄卿日記』や三条西公福の『日記』などにも記載が無い。どうやら伝承好きの江戸人が、後から創りあげた話らしい。(参照・『享保14年、象、江戸へゆく』和田 実著 岩田書店刊 2015年刊)

六郷川を渡る象………

5月25日に江戸に着いたと記載している。ほぼ1日3〜5里(12〜20キロ)歩いたようである。江戸に近ずいた5月4日に江戸入府の準備のため、「六郷の渡し」近隣の村に幕府から回状が廻された。これらのお触れは10通ほど出されている。上写真は京都で宮中で天皇が御覧になられた時の姿、ベトナムの象使いが乗っている。貴族の烏丸家に残された画である。
回状の内容は、『象を渡すため六郷の渡しに船を並べ渡河させろ』と命じるものである。象を渡すため30数隻の船を並べ、
その上に板を敷き、要所に杭を打ち、船を固定して揺れを防ぐことにした。実際の渡しはどうだったか、子象だが3トンちかくある。困難な作業であったろう。工事の費用は幕府直轄領の六郷領36村と川崎領26村が負担することになった。工事は5月9日に始まり7日間かかった。六郷領だけで延べ805人の人足が参加したという。渡河予定の18日の二日前には幕府から次のような通達があった。
幕府は始め六郷川を大きな渡船で渡すつもりであったが、不安になり船橋を作って渡すように命じた。(道中奉行・稲生正武
船橋詳細

また別の資料「川崎宿御用留」には、渡船三隻をもやい船とし、その上に象小屋を造り渡したとあるが、この可能性もある。
 大田区立郷土博物館発行(2005.3.10)博物館ノートNO139『御用象、多摩川を渡る』によれば、『渡し場の長船3艘もやい、上に象小屋を造る、筵バ張り(むしろ張り)』と記載がある。これは川崎市博物館調査団が調査した、川崎宿の本陣・森家に残る「御用留」の記載によるので確かな記録だと思われる。

江戸時代幕末の頃、見世物で賑わう両国河岸…ゾウの見世物
 江戸の図譜を見る

下記のような通達が何度か出された。まさしく「象さまのお通り」であった。24日朝には、六郷の渡しの船橋を渡り品川宿に泊まる。または、上記のように「船上の小屋に乗って渡河した」という説もある。25日浜離宮に到着、そこで27日の将軍上覧まで休んでいた。(品川宿には泊まらずに浜離宮まで歩いたという説もある)

『徳川実記』によれば、徳川八代将軍 吉宗は江戸城大広間から象を見たという。この時、幕府御用絵師・狩野古信は上記の絵を描いた。江戸は大騒ぎとなり、巷には色々な草紙や双六まで出版された。中村平五撰『象誌』、智善院撰『象のみつぎ』、林大学頭撰『馴象談』。井上道熙撰『馴象俗談』、一枚刷りの『広南霊象図』、漢詩集『詠象詩』などの本である。また、歌舞伎の「象引」が創られた。赤坂山王日枝神社の祭礼にて張り子の象山車までも登場した。

その後、象の余生……
 象はしばらく浜離宮で飼育されたが、年間飼料代200両、食料の世話、番人を殺すなどの事故があったため、民間に払い下げられることになった。享保17年(1732)に幕府直営の象舎が中野に造られた。押立村の平右衛門、中野村の源助、柏木村の弥兵衛の三名が世話にあたることになった。周囲に堀を巡らした柵内に、足には鎖を繋ぎ飼育した。彼らは知恵者であったらしく、象の糞が疱瘡の薬であると言って売り出して大もうけしたという。糞ではなく涙だという説もある。また、象舎は見物人で賑わい饅頭も売れたという。


江戸名所図会 巻4 明王山宝仙寺

象は寛延(1748〜51)頃死んだ。死亡した年代はいくつかあるが、寛延2年(1749)が正しい思われる。異国で孤独で死んだ哀れな象であった。皮は剥がされ、頭蓋骨と牙、鼻の皮が源助に与えられた、これがいま、中野宝仙寺に伝わる『馴象之枯骨』(じゅんぞうのここつ)である。鼻の皮の一部も残されている。(非公開)

  • 《通達内容》
    道を綺麗にして、象の飲む水を用意しておくこと
    寺など鐘は突かないこと……象が驚くからであろう。
    牛や馬は街道に近づけないこと……十丁以上離しておくこと
    見物で騒がないこと、街道には縄を張ること……家の中からでないように
    街道にある「あおさ」(藻の一種)など汚れた物は取り除いておくこと
    犬や猫は繋いでおくこと
    火の用心をしておくこと

インド象(オス)
 インド象(メス)
             


上の絵は『唐蘭船持渡鳥獣之図』(慶應義塾図書館 貴重書室所蔵)許可済み 禁無断転載
 この本は江戸時代寛文年間(1661-72)、長崎で代官や町年寄りを勤めた高木家が外国から渡来した鳥獣を絵に描き江戸幕府に送った、その控えの絵をまとめたものである。幕府はその絵を見て必要な物を江戸に送らせた。ゾウもそのように江戸に来たのであろう。江戸の図譜を見る

参考『舶来鳥獣図誌-唐蘭船持渡鳥獣之図と外国産鳥之図-』解説者 磯野直秀 内田康夫 株式会社 八坂書房発行


《ゾウは架設の船橋を渡れたか》
 
  NHKのBS放送「地球の好奇心」で『象よ泳げ、荒波を越えてーインド・アンダマン諸島』(2003.08.09放送)で森林伐採に使われている象の物語を見た。その中で島から島へ象が泳ぐのである。もちろん自然に象が泳ぐわけではない。象は利口で歩くときに足下を見ながら歩くらしい、そのため最初は足下の見えない海では、前に進まないそうである。徐々に浅瀬から深みに訓練すると泳げるようになるという。鼻をシュノーケルのように出し、犬かきのように泳ぐ、スピードも早く番組では1時間ほど泳ぎ島に渡った。生まれた子象もすぐに泳げるようになった。不安定な六郷の船橋を渡った象も泳げれば楽だったろう。可能性を考えると象は、船橋の板があるので多少不安定でも渡れたであろう。

 インド洋上、ベンガル湾のはるか下に位置するアンダマン諸島は、太平洋戦争で日本軍が占領した島である。終戦まで補給も絶えた悲惨な状況であった、小さな島で逃げようのない兵士達の悲劇を我々は忘れてはならない。マルコポーロの『東方見聞録』にもこれらの島が紹介されており、犬の頭を持つ人間の住む不思議な島と記述がある。

『史話』2号「象さま 東海道をまかり通る」新倉善之より 大田区発行 1974年)
『御用象、多摩川を渡る』博物館ノート NO139 2005.3.10 大田区立郷土博物館〉
『多摩川ー境界の風景』三輪修三 (株)有隣堂発行 昭和63年〉
『象の旅』石坂昌三著 新潮社 1992年刊
『享保14年、象、江戸へゆく』和田 実著 岩田書店刊 2015年刊 この本は丁寧に資料を収集し解説している。資料名が明示されているので内容が信頼でき、象の旅が浮かびあがる貴重な研究書である。
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