「六郷の渡し」で渡河する明治天皇の東幸行列……東幸ー1

明治天皇渡河 錦絵

「武州六郷船渡」尅斉芳年(月岡芳年) 版元 丸甚 三枚揃 制作・明治元年(1868) 大田区立郷土博物館蔵

月岡芳年が描く六郷の渡しを渡る明治天皇の行列
明治元年(1868)10月 明治天皇の御東幸風景。官軍に守られ、六郷の船渡しを行軍する明治天皇の行列。作者は 残酷絵や静謐な浮世絵で幕末から明治に活躍した月岡芳年の錦絵三枚揃いである。魁斉芳年とあるので、月岡芳年の号のひとつ一魁斉芳年であると思われる。
 船橋の制作は東幸の決まった日から間もない明治元年(1868)の9月23日である。23艘の船を横に並べ数十本の丸太で船を繋ぎ固定した、その上に板を敷き詰めて渡河させた。浮世絵では誇張して描かれいる、壮麗な行列を印象ずけるのが目的で実際の風景を描いたものでない、想像である。(注)大田区の資料では並べた船は36隻としている。川崎市のホームページでは23隻である。「六郷船橋架設設計図」川崎宿 詳細


六郷渡しの船橋について
 
  当時の記録によれば、渡河する多摩川の川幅は106メートルである。ここに川船36船を横に並べ、杭やロープで繋いで固定した。その上に板を敷き馬が滑らないように砂を撒いたようである、要所に杭を打ち揺れを防いで渡河したと言う。この架設費用は川崎宿で負担した。翌年明治02年03月の「御再幸」時には、鈴木左内の父である鈴木万右衛門(大森側)が費用を請け負っている。
しかし、私は杭を打ち船の揺れを防いだと言うが、行列のままでは渡河出来ないと思う。左の写真は部分のアップである、完全に船の揺れを防ぐ工夫をしなければ、このように密集して渡河することは難しく、川の流れや重量を考えると揺れて不可能ではないだろうか。
 錦絵では天皇の権威を示すためにも、堂々たる行列にする必要があったのだと考える。日本全国で錦絵が見られたときに、新政府の権威を確保するために必要な操作であったのではないでしょうか。
  資料によれば、当時の「錦絵」は行列を見て描いたのではなく、全て想像で描いたといわれています。そのため、この絵も昔からの伝統的な行列の姿だと思われます。

錦絵をプロガンタ(広報・宣伝)に使った江戸幕府御上洛東海道の風景
 
 錦絵(浮世絵)の持つ影響力は、たびたび禁止令を出した江戸幕府には良く分かっていた(天保の改革)。江戸初期以来229年後、文久3年(1863)の将軍上洛は、幕府の権威を示す絶好の機会と考えた、為に貞秀、二代広重、芳幾など若手浮世絵師16名を行列に加えた。俗に言われる「御上洛東海道」「行列東海道」となり、浮世絵162点が板行された。第一次・第二次(慶応2年)の長州征伐にも絵師が同行したと言う。現在、この浮世絵は『行列東海道』京都書院アーツコレクション刊 定価1050円となった。
 
  また、『東海道五十三次 将軍家茂公御上洛図』福田和彦著 河出書房新社刊 3500円にも同様の説があるが、この説は面白いが資料の裏付けがなく、私もその説に疑問を持っている。絵師は同行しなかったと考える。(平成24年12月記)

天皇の東幸を庶民へ絶好の宣伝・広報機会と考えた新政府は、江戸の浮世絵師に描かせた。京都からの東幸は軍事的目的より為政者が替わったことを示すことにあった。行列は華麗で武士がいなくなり荒廃した江戸庶民に新しい時代の到来を実感させた。
 上記の「武州六郷船渡」でも現実的ではあり得ない華麗な様子を描いている。月岡芳年の他の浮世絵を見る。


高輪を行進する東幸行列
平間の渡し  矢口の渡し   扉に戻る    次のページに船橋