●この絵図には、制作者の詳細な記載があり原文を紹介する。 『この時、六郷川の渡船は危険だということで、急遽船橋を架けることとなった。天皇は、九月下旬に京都を発ち、十月十二日に川崎宿本陣に御着輿することになっている。内侍所の神宝は新造の建物に奉安し、本陣前左右に「下乗」の制札を建て、「下馬」の立札は家の前後に建てることになった。
当日は晴天のため近在の老若男女が、一目御鳳輦を拝し奉らんとして前代未聞の群集が押し寄せ、しかも御供の人数もおよそ二千八百人という混雑である。旅籠代は、二食付きで一泊一人につき金一分、昼旅籠代は一人につき金二朱。諸藩の賄い無しは一人につき一泊金三朱、昼旅籠代は一人につき金一朱で、金札で支払われたほかに本陣へ茶料として金千疋を下された。 尤も、御鳳輦が船橋を越えたのは十二日昼九つ半過ぎのことであり、この日は品川宿泊りで、翌十三日に東京へ入城となった。 船橋は、玉川=六郷川の川幅が六十間(一〇九メートル(3))あるので、川船二十三艘で長さ五十間(九一メートル)となり、道幅三間(五・五メートル)、坪百五十坪である。ほかに両川端から波戸場を築き出し、ここから桟橋を架け渡し、上敷きとして桂板を桟橋から船橋の上に至るまですべて、杉板を一尺巾に割ったものを敷き詰め、押縁二通りにして棕路縄で結え、下楔は杉丸太で組立て、棕路縄で結いつけ、水中は川船二十三艘を舫い船の間ごとに図面の通りにそれぞれ杉丸太を振込、布木で挟んでおく。そのようにすれば潮時においても船が上下しても問題が無い。桟橋の用材は、杉材の五寸(一五センチメートル)角で、大杭は三本が長さ五間一尺(九・四メートル)で末口(4)が八寸(二四センチメートル)。根固めの控杭は長さ四間(七・三メートル)の末口四寸五分(一四センチメートル)。水上の親杭は、杉材五間三尺(一〇メートル)、末口八寸(二四センチメートル)。命綱は長さ三十間(五五メートル)の棕路縄。根固めの控杭は五本で杉材の長さ四間(七・三メートル)、末口四寸三分(一三センチメートル)。川上に碇で船が流されないように留める。その大碇五挺は、一挺につき四十貫(一五〇キログラム)から五十貫(一八八キログラム)。奥書には、船橋工事の担当者の永山富太郎が出張して、図面の通りに行われた。尤も当所は渡船であることを心得ていたが、東海道の馬入川、酒匂川も船橋(5)架設と聞き、渡船は危険と考えて急遽船橋となったのである。そのため九月二十三日から諸職工一同が建設にかかり、費用やその他川船損料、職工手間賃などに至るまですべて官費として、船橋となる川船二十三艘の損料一日分金十七両一分、一艘に付一日分は金三分の御手当が下される。大工職は一人につき一日分銀十八匁づつ、土方人足は一人につき一日分銀三匁づつ、鳶人足は一人につき一日分銀十二匁づつ支払われた。総額金一一一三両一分二朱である。但し、職工の早出と夜仕事は、御定め外なので前途金として下された。 明治元年十月 川崎宿久根ア町 森五郎作』。(国立東京博物館の鳳輦・解説)
上図は部分拡大 几帳面な性格を思わせる絵図
●船橋の制作は東幸の決まった日から間もない明治元年(1868)の9月23日である。23艘の船を横に並べ数十本の丸太で船を繋ぎ固定した、その上に板を敷き詰めて渡河させた。浮世絵では誇張して描かれいる、壮麗な行列を印象ずけるのが目的で実際の風景を描いたものでない、想像である。(注)大田区の資料では並べた船は36隻としている。川崎市のホームページでは23隻である。「六郷船橋架設設計図」 |