月岡芳年は歌川国芳の弟子であり、江戸から明治時代を代表する
最後の浮世絵師である



大蘇芳年の描く浮世絵、精神が病んでいた頃の作品と思われる。「紅葉狩り」とタイトルが付けられているが、全体のバランス、特に紅葉の散り方が不気味である、血が滴っているように見える。(勿論、個人の感想である)女性の顔も華やかでなく、思い詰めた表情である。伝承・長野県長野市戸隠・鬼無里など鬼女「紅葉伝説」があり、勅命を受けた平維茂が八幡大菩薩より授かった破邪の刀でこれを退治する話が広く伝えられている。能の演目として知られる。

『平維盛 戸隠山鬼女紅葉退治之伝』 大蘇芳年 天保10年(1839)〜明治25年(1892)竪二枚 国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
 
 
明治7年(1874)から病の回復を得た芳年は、号を 一魁斉芳年(いっかいさい よしとし)から大蘇芳年に替える。『月百姿』は月に縁故ある和漢の人物を描き出した錦絵である。当時の新聞錦絵に使われたアニリン系染料の毒々しい赤色を極力さけ、昔ながらの落ち着いた色調を目指している。芳年は絵の資料を幅広く求め、考証資料、古今の筆法や表現方法を学び、作画に対する熱意と真摯な努力が見て取れる。芳年の傑作シリーズのひとつである。

浮世絵 大蘇芳年
霜満軍営秋気清 数行過鳫月三更 謙信 
『月百姿』…霜満軍営秋気清 数行過鳫月三更 謙信  「馬込と大田区の歴史を保存会」所蔵

 天正5年(1577)9月 上杉謙信は七尾城の遊佐弾正を攻め落とし能登を手に入れた。場面は落城した後の9月13日宴を開いた謙信が漢詩を熟考するところである。シルエットの山並みに、月に雁の列がかかる姿を描いている。   鎧の黒い部分(籠手・膝)には、布目(ぬのめ)摺りが使われており、謙信のかぶっている帽子にも同様な摺りが見られる。凝った錦絵である。
目録題「輝とら入道」 明治23年3月20日印刷 日本橋室町1丁目9番地 同年4月出版 秋山武右ェ門
(注)余白はトリミングしてあります。(参考図書 芳年『月百姿』編著者 岩切友里子 図書印刷出版 平成22年)
「馬込と大田区の歴史を保存する会」所蔵


『大日本名将鏡』…武田大膳太夫晴信入道信玄
 明治11年(1878)より5年間続き51枚が創られた。評判を呼び多くの枚数が摺られた。
明治11年4月 丸屋町5番地画工・月岡米次郎 東福町2番地 出版人・船津忠次郎  定価2銭5厘 「馬込と大田区の歴史を保存する会」所蔵

「詞書現代語訳」 信虎の長男で法名は信玄。16才で平賀源心を討って武名を上げ、のちに父・信虎を駿河へ追放。村上氏を破って信州を併呑し、長尾輝虎(上杉謙信)と何年も戦った。また、今川氏実を追って駿河を取るなど武略謀計に長け、遠江、三河へ兵連れ、野田城を攻めた際、草むらの虫の音を聞こうとするも叶わず、敵の銃弾に当たり天正元年四月に死去。享年五十三である。

芳年は画面構成力がすばらしく、肉筆でも十分な力量である。浮世絵師の多くが彫り師、摺師の力を借りているのは事実であった。師の國芳の軽妙さはないが、鬼気迫る迫力は国芳を越える。もちろん私見である。(注)「馬込と大田区の歴史を保存する会」所蔵。 
参考資料・『大日本名将鏡』歴史魂編集部・編発行・アスキー・メディアワークス 2012年 
、浮世絵は「馬込と大田区の歴史を保存する会」所蔵


「風俗三十二相 うるささう」月岡芳年 版元は日本橋馬喰町の島鮮堂綱島亀吉
寛政年間乙女之風俗 1888年(明治21)から始めた大判32枚のシリーズ、明治時代からの年代・年齢・階層の女性を描く、芳年の代表作とも言われる。「馬込と大田区の歴史を保存する会」所蔵



「大日本名将鑑 六孫王経基」上
画・月岡芳年  東京都立図書館所蔵 詳細を見る

「大日本名将鑑 左馬頭義朝」画下・月岡芳年
  東京都立図書館所蔵 拡大表示
《月岡芳年の奇想 毅然とした哀愁漂う後ろ姿》
源頼朝に愛され、数々の武功をたてたが頼朝の死後、北条時政らの讒言にあい討伐される。場面は二俣川で討伐軍にあい、潔く討たれる場面である。誇り高く哀愁漂う後ろ姿を月岡芳年は見事に描いている。下の左側 
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「一ノ谷合戦」画・月岡芳年 竪2枚  国立国会図書館所蔵 詳細を見る

一ノ谷の戦いは、「平家物語」で有名な鎌倉武士熊谷直実が、沖にいる平家の若武者平敦盛に勝負を挑む場面である。引き返してきた敦盛の若さに驚く熊谷直実だが、やむなく首をとる。後に直美は出家する。この話は、能・幸若舞・歌舞伎となり涙を誘う。
 織田信長が桶狭間に出陣の折、舞ったのが幸若舞の敦盛である。
月岡芳年は竪2枚の浮世絵に、去りゆく平敦盛を小さく描き、引き返す敦盛と熊谷直実の姿を見事に描いている。直美が背中に背負う矢を防ぐ母衣(ほろ)の形状も見事である。

「大日本名将鑑 八幡太郎」絵・月岡芳年 明治9年から15年にかけて創られた。東京都立図書館蔵  
 
上の浮世絵は、「勿来の関」(なこそのせき)に向かう源義家である。源頼義・義家親子は「前九年の役・後三年の役」を戦い、八幡太郎義家と言われ、恐れられた河内源氏の棟梁と認められた武将である。源義家詳細を見る
月岡芳年は、作品として『大日本名将鑑』『大日本史略図会』『新柳二十四時』『風俗三十二相』『月百姿』『新撰東錦絵』『芳年武者無類』などがあるが、芳年は江戸時代の武士と違う武士像を求めたようである。時代考証をしっかりとし、近代的意識を持った武人である。鎌倉武士を見る。
船橋を渡る官軍(大田区立郷土博物館所蔵)
 

  左の錦絵は「一魁斉」の号である、製作も明治元年であるので、芳年特有の鬼気迫る恐ろしさはなく、緻密な錦絵である。彼の持病である精神分裂症の発病は明治5年(1872)である。絵に病気の様子は見られず、写実描写が発揮された素直な錦絵である。

最後の浮世絵師と言われた月岡芳年について…一魁斉芳年  
月岡芳年(俗称 米次郎)は天保10年(1839)3月17日に生まれた。「江戸新橋の丸屋町」と「武州豊島郡大久保」だという二つの説がある。12才で歌川国芳の門下となり、15才で処女錦絵『文治元年平家一門海中落入図』(1853年)を上梓している。芳年の画号と一魁斉の号を許されている。専門家は慶応二年(1866)までを芳年の修行期間と位置づけている。(参考「芳年の作品 その狂気と幻想」山根康愛著) この絵を描く二年前には、兄弟子と競作で『英名二十八衆句』を出している。14枚ずつの絵すべてが血がしたたる凄惨なもので、後の発病を予感させる錦絵である。

月岡芳年は歌川派絵師の一人として、文久三年四月頃より板行された『御上洛東海道』に参加した。齋号は一魁齋芳年
で、彼特有の構成で8点の浮世絵を残している。参加した16名の歌川派絵師の中でも構成力は郡を抜いている。一魁齋芳年の御上洛東海道を見る。

月岡芳年は後に「郵便報知新聞」に参加する。これは明治7年から10年のわずか3年の短い期間発行された錦絵新聞である。有名なのは「東京日日新聞」と「郵便報知新聞」で、これらの新聞は当時の社会状況を錦絵に描いたものである。事件を今の写真週刊誌や女性週刊誌のように「のぞき見」的に取り上げ大衆に受けた。しかし、のちに新聞が同様な取り上げ方をしたことによって衰退し廃刊となった。

 明治6年(1874)月岡芳年は病が治った頃、蘇ったと言う意味から「大蘇芳年」と名乗る。他にも、玉櫻、旦華亭または子英などの号がある。


錦絵で有名なのは、縦二枚続の「安達ケ原一つ家の図」(左の浮世絵 東京国立博物館所蔵)、縛られ逆さ吊りにされた若い妊婦を見上げる老婆の絵。 残酷絵に鬼才を示し「血みどろ芳年」ともいわれたが、他の絵にも傑作がある、大首絵の美人画などである。
 作品としては、円熟期(明治9年から17年)に発表された『新撰東錦絵』、最高傑作『月百姿』などがある。これ以後、精神に異常を来し作品は減る。



「老婆鬼腕を持ち去る図」

「武田勝千代に老狸を撃の図」
「二十四考狐火之図」
『新形三十六怪撰』で妖怪趣味の異常な世界を描く。その後、病が再発し明治25年(1892)6月5日没、享年54才であった。彼の墓は、東大久保の東福寺にある。明治31年(1898)には、向島百花園に記念碑が建てられた。(浮世絵は東京都立図書館所蔵)
文久4年(1863)、一魁齋芳年の齋号で『御上洛東海道』に参加、彼らしい独創的な浮世絵を制作した。
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