|
||||||||||
|
||||||||||
●浮世絵は、歌川芳虎の「源平盛衰記」「一ノ谷合戦」東京都立図書館所蔵である。 | ||||||||||
「一ノ谷落城熊谷討敦盛」画・揚州周延 三枚揃い 拡大表示 (パブリックドメインWikipedia) 「一ノ谷合戦」画 月岡芳年 竪2枚 拡大表示 ●左の浮世絵は、月岡芳年の武者画「一ノ谷合戦」である。竪2枚の構図を上手く使いダイナミックな構図に仕上げてある。特に左したの海の中に小さく描かれた平敦盛は上手い構図である。(国立国会図書館所蔵) ●敦盛の最期は浮世絵や能、幸若舞に取り上げられている。能の「敦盛」が信長が桶狭間に向かうとき舞った能であると言われている。詳細を見る |
||||||||||
●熊谷直実の人生…… 御家人となった熊谷直実は剛直な性格らしく、頼朝に流鏑馬の的立役を命じられると、騎馬でないことを理由に拒否し所領を没収される。また、武蔵野国熊谷郷と久下郷の境界争いに不服を持ち、頼朝の面前から去り行方をくらます。頼朝の帰るようにとの言葉にも耳を貸さなかったと言う。 上洛した熊谷直実は法然房源空(浄土宗)に帰依し、法名を法然房蓮生(ほうりきぼうれんしょう)と言う。建久六年(1195)頼朝に会い「仏の教えを話す」、故郷の武蔵野国にも行く。西山義の祖証空(しょうくう)にも従い、本山光明寺を建立、他にも法燃寺や武蔵野国熊谷寺(ゆうこく)も建立したと伝わる。彼は功徳を積んだ結果か、死期を預言してそのとおりに合唱念仏のまま成仏したと伝わる。 |
||||||||||
●安田靫彦 敦盛を舞う織田信長 鎌倉目次へ戻る | ||||||||||