源頼朝から鎌倉武士随一剛の者と言われた、後に世の無情を感じ仏門に入る


熊谷直実は、一ノ谷合戦で平家の若武者「平敦盛」を討ち取る

永治元年(1141)に武蔵野国大里郡熊谷郷(埼玉県熊谷市)を本拠とした熊谷直貞の二男として生まれた。通称は熊谷直実、保元の乱では源義朝に従う、平治の乱では義平爾に従い戦うが、義朝が敗れ,以後、平家に従う。源頼朝が「長井ノ渡し」を渡る頃、他の秩父武士と共に頼朝の御家人となる。

 常陸の国佐竹氏の攻撃で勲功をあげ、武蔵野国熊谷郷地頭職に補任される。一ノ谷の合戦では、沖に逃げる平氏の公達平敦盛(あつもり)を呼び止め討ち取るが、自分の息子と同じ若い者の首をとることに武士の無情を感じる。それが後の出家の一因となった。下の月岡芳年の浮世絵は、熊谷直実の背中から描き、左下の海には、呼び止められて引き返してくる平敦盛が小さく描かれている。これから起こる戦いの悲劇を予感させる構成である。(下左の浮世絵)
また、この浮世絵で月岡芳年は後ろ姿で、後方から来る矢を防ぐために纏う母衣(ほろ)の形状を見事に描いている。母衣は風を受けて膨らむので、背後からの矢を防ぐと考えられた。


浮世絵は、歌川芳虎の「源平盛衰記」「一ノ谷合戦」東京都立図書館所蔵である。

「一ノ谷落城熊谷討敦盛」画・揚州周延 三枚揃い
拡大表示 (パブリックドメインWikipedia)

「一ノ谷合戦」画 月岡芳年 竪2枚 拡大表示

左の浮世絵は、月岡芳年の武者画「一ノ谷合戦」である。竪2枚の構図を上手く使いダイナミックな構図に仕上げてある。特に左したの海の中に小さく描かれた平敦盛は上手い構図である。(国立国会図書館所蔵)
敦盛の最期は浮世絵や能、幸若舞に取り上げられている。能の「敦盛」が信長が桶狭間に向かうとき舞った能であると言われている。詳細を見る
熊谷直実の人生……
  御家人となった熊谷直実は剛直な性格らしく、頼朝に流鏑馬の的立役を命じられると、騎馬でないことを理由に拒否し所領を没収される。また、武蔵野国熊谷郷と久下郷の境界争いに不服を持ち、頼朝の面前から去り行方をくらます。頼朝の帰るようにとの言葉にも耳を貸さなかったと言う。
 上洛した熊谷直実は法然房源空(浄土宗)に帰依し、法名を法然房蓮生(ほうりきぼうれんしょう)と言う。建久六年(1195)頼朝に会い「仏の教えを話す」、故郷の武蔵野国にも行く。西山義の祖証空(しょうくう)にも従い、本山光明寺を建立、他にも法燃寺や武蔵野国熊谷寺(ゆうこく)も建立したと伝わる。彼は功徳を積んだ結果か、死期を預言してそのとおりに合唱念仏のまま成仏したと伝わる。
安田靫彦 敦盛を舞う織田信長  鎌倉目次へ戻る