平賀源内が書いた人形浄瑠璃は歌舞伎『神霊矢口渡』となる


『神霊矢口之渡』絵師・ 豊原国周(くにちか)彫師・銀・明治16年10月01日  画工・ 荒川八十八・カンダ錦町1丁目十番地・出版 中島松次郎  「馬込と大田区の歴史を保存する会」所蔵
  
神霊矢口渡の役者絵について
 最後の役者絵師と言われた 豊原国周(くにちか)の浮世絵である。豊原国周(1835〜1900)は俗称を八十八と言う。彼は、三世豊国に師事、安政2年(1855)頃より国周(くにちか)と落款を入れる。 明治初年頃より役者大首絵を描き人気を博す、明治期の歌舞伎役者の九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左団次、四代目中村芝翫などを描く。豊原国周の浮世絵には、役者の性格や人格まで表現されていると言われる。
 上の浮世絵には、頓兵衛に九代目市川団十郎が「赤面に針金捲毛」の七代市川団十郎の形で演じる。船頭(下男)六蔵に初代市川左団次、頓兵衛の娘おふねに、4代目助高屋高助が描かれている。明治16年(1883)東京新富座で上演された五段構成の内、4段目の
頓兵衛宅場面を描いたものである。

上の浮世絵は、関東近郊の村で保存されていたものである。三枚が糊付けされ状態は良くないが、ヤッフーオークションで手に入れた。おそらく明治に帝都東京で芝居見物のおりに手に入れ、家に飾られていたものあろう。



『神霊矢口渡』絵・右田年央 明治26年(1893) 頓兵衛・片岡市蔵 おふね・沢村訥升 枠内・市川団十郎 三枚揃・大判錦絵「馬込と大田区の歴史を保存する会」所蔵
浄瑠璃や歌舞伎で有名になった『矢口の渡し』


頓兵衛地蔵堂


舞伎『神霊矢口渡』のあらすじ………時代物、五段  渡し守の頓兵衛宅の家に一夜の宿を求めて、新田義峯(にったよしみね)と傾城(けいせい)「うてな」がやってきます。二人は恋人で追っ手を逃れてきたのです。頓兵衛の娘お舟は、義峰に一目惚れしてしまいます、そのため、かなわぬ恋と知りながら、追手の足利方に味方する父を裏切って二人を逃しました。それを知った頓兵衛は後を追おうとします。説得のため立ちふさがるお舟を切り捨て、あとを追って行きます。瀕死のお船は二人を逃すために、太鼓をたたいて追ってを欺むきます。追いすがる頓兵衛に、天から飛んできた新田家重宝の矢(水破兵破)が貫きます。………と言うような悲恋物語である。

右の本は、地域情報紙「かまにし17」で平成25年3月1日47号で掲載された『神霊矢口の渡』(見開き2ページ)で集まった膨大な資料を、編集委員長(都築保二氏)が個人的にまとめた労作である。戦前まで、歌舞伎は地方の地芝居でも演じられたようであるが、戦後は勧善懲悪の物語と取られたのか、歌舞伎ではあまり演じられることはないようだ。しかし、地方の地芝居では、町や村の文化として受け継がれている。これらの貴重な資料と矢口渡しの歴史があらゆる面から考察されている。多摩川の矢口渡跡には『矢口渡し』表示があるだけであるが、裏には民俗学的資料の豊富な財産がある。『矢口の渡考』は非売品、本の詳細を見る


神霊矢口渡浮世絵
『神霊矢口之渡』絵・香蝶楼国貞 天保14年〜弘化4年頃(1843〜47)大田区立郷土博物館蔵
 

矢口の渡し」は浄瑠璃から歌舞伎になり、『神霊矢口渡』で七代目市川団十郎が頓兵衛役を演じ当たり役になり有名になった。
  作者は福内鬼外(ふくうちきがい)こと、讃岐国出身の平賀源内(1729〜1779)である。最初は人形浄瑠璃で、明和7年(1770)に上演された、思いのほか好評で「江戸浄瑠璃の名作」と言われた。その後、寛政6年(1794)に歌舞伎にもなり人気を博した。話の場所は「矢口の渡し」で、恋のため我が身を犠牲にする娘の物語。いかにも江戸の人々が好みそうな話である。

『神霊矢口渡』は明和七年(1770)の1月16日、江戸の外記座で浄瑠璃として初演された。当初から評判が良く、その秋には大阪の竹本座でも上演された。
 歌舞伎化は寛政6年(1794)に江戸桐座で初演された。天保年間に7代市川団十郎が頓兵衛役を演じて以来、大役となり歌舞伎で上演された。現在では四段目「頓兵衛宅」のみが上演される。歌舞伎の中でも「小芝居」と言われるジャンルに属し、小さな小屋でも演じることが多かったようです。

「地芝居」というジャンルがある。これは寺社の境内で演じられた芝居である。『神霊矢口渡』は、地方の歌舞伎演目のひとつとして定着している。村の神社境内や素人歌舞伎で演じられている。そのため日本中で知られることになりました。現在でも演目のひとつとして地方の祭りなどで演じられています。

平賀源内ひとりの戯作ではなく、浄瑠璃特有の形式や約束事があるため補助(すけ)を頼んでいます。『神霊矢口渡』には補助作者として、吉田冠子、玉泉堂、吉田二一の3名が知られています。また一説では、新田神社が「平賀源内に依頼して書いて貰った」と言われるが真偽の確認は出来ない。
 平賀源内に浄瑠璃を書くのを勧めたのは、浄瑠璃の人形遣い兼作者、演出家であった二代目吉田文三郎(吉田冠子)であるという、明和7年(1770)に外記座にいた彼が勧めたのであると言われる。当時、源内は学者で多彩な人物として知られていた。また、吉田文三郎のパトロンである南三井家の次郎衛門高業(たかなり)が勧めたとも言う。平賀源内(福内鬼外)は『神霊矢口渡』をきっかけとして晩年の10年間に9遍の浄瑠璃を発表した。今まで上方浄瑠璃に押されていた江戸浄瑠璃を『神霊矢口渡』で確立したのである。(参照・人物叢書『平賀源内』城福 勇著 吉川弘文館 昭和46年刊)

歌舞伎『神霊矢口渡』の浮世絵が『早稲田大学 演劇博物館 デジタル・アーカイブ・コレクション』で見ることが出来ます。利用規約に従い検索してください。「浮世絵」の検索で、画題窓に『神霊矢口渡』と入れると、5種類の「神霊矢口渡」浮世絵を見ることが出来ます。


江戸名所図絵

江戸名所図会に見られる「矢口古事」  
雷が鳴り、黒雲の中に鎧姿で弓を持ち白馬に乗った義興があらわれ、遠江守に撃ちかかるようであった。   遠江守は落馬して従者により屋敷へ運び込まれたが、七日間水に溺れるように苦しんで死んだ。その古事にならった画である。(注)画は2枚のページを見やすいように繋なげてあります。

歌川芳虎「東海道五十三次ノ内 川崎・神霊矢口渡」と歌川芳員の「神霊矢口渡」


「東海道五十三次之内 神霊矢口渡 川崎」絵・一猛齋芳虎(歌川芳虎)版元・伊勢忠 伊勢屋忠介 弘化4年〜嘉永5年(1847〜1852)ボストン美術館蔵 

「新田義興の霊怒って雷を落とす」一寿齋芳員(よしかず)(歌川芳員) 版元・三鉄 三河屋鉄五郎 改印・福島和十郎・村松源六 嘉永5年(1852)ボストン美術館蔵 

浮世絵浮世絵

画題・左「源氏雲浮世画合 横笛」絵師・一勇斉国芳、版元・伊勢市 伊勢屋市兵衛、改印・村田平右衛門 弘化1年から4年(1847)、源氏物語の36・37巻「横笛」に題材をとっている。頓兵衛とおふねを配し、おふねを笛娘と花笠外史は書いている。よくわからない。  国立国会図書館デジタル化資料所蔵 

画題・右「東海道五十三次対 川崎」絵師・一勇斉国芳、版元・堀江小嶋板 小嶋屋重兵衛 堀江町、改印・村田平右衛門、弘化1年から4年(1847)、矢口渡で頓兵衛の策略により舟を沈められ、必死に戦う新田義興の家来の姿を描いている。 国立国会図書館デジタル化資料所蔵

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