「破魔矢」発祥の新田神社は新田義興を祭る古社である

新田神社写真


新田神社の建立は、正平13年(1358)である。新田義興が謀殺された年である。
『太平記』によれば、謀殺のあと怪光やたたりがあると評判になったため、義興を埋葬した塚に新田神社を造立したという。祭神は新田義興である。社殿の後ろは15メートルほどの円墳があり、『御塚』と呼ばれ、義興の遺骸を埋めた墓だとの伝承がある。
御神木は欅(ケヤキ)で、樹齢700年、雷や戦災に遭いまっぷたつになってしまったが、新緑の頃には若葉が茂る。上部には宿り木も寄生している。
境内には『新田神君の碑』や『神社への道標』『狛犬』などがある。江戸期には徳川家が新田氏を出自とすることから、祭礼の時は大変なにぎわいであったという。緑豊かな神社である。明治には東京府社に昇格した
なお境内の「唸る狛犬」は、メス一頭のみである。

神木写真先代の狛犬写真


上の写真は、二つに引き裂かれた御神木。しかし枯れることなく新芽をを出している。右の狛犬は、畠山一族のゆかりの人間が神社付近に来ると雨を降らし、うなり声を上げたという伝説がある。2体あったが、戦災で壊れ1体しかない。(右写真)  新田神社道標 拡大表示

石碑写真矢守写真破魔矢

「新田神君」の碑
延享3年(1746)忠臣としての義興の事跡を顕彰した碑この他にも、延宝4年(1676)に松平政種が寄進した、『新田大明神縁起絵巻』がある。(都文化財)


「破魔矢」はこの神社から始まったらしい………


江戸時代の『武江年表』(斉藤月岑)に宝暦(1751〜1764)末頃、『宝暦末より矢口新田社に参詣多し、社地に矢を売始、詣人求めて守りとす』との記述あり。最初は新田軍旗の2本のセットで、門前の茶店で売られたらしい。破魔矢の考案は平賀源内で「矢守」と言っている。

平賀源内と「矢守」の話……
 この円墳にしか生えるていない竹がある。矢は御塚の外には生えないと言う、平賀源内がこの竹で『矢守』を作り正月の名物となったという。参拝者は、五色の紙で作った小さな矢二本を買い、一本は神殿に供えたのち、もう一本を持ち帰り魔よけにしたという。これは、新田家伝来の「水破兵破」の二筋の矢に由来している。長さ43センチ。(上の写真)

「神霊矢口渡」から……歌舞伎の神霊矢口渡
 
『ふたたび御矢手に入るからは、官軍をかり集め、朝敵を亡して兄上の恨みを散ぜん、代々伝わるこの御矢、家の武運長久の守り、ハハハハありがたし忝なしとおどり上がって悦び給う、末世の今に至る迄新田の社へ参拝し、守りの御矢頂戴の、因縁かくとぞしられける……』
「神霊矢口渡」艇梁場(わたしば)の段、義大夫から(江戸芸能・落語地名辞典(下)六興出版 1985年発行)


『守貞漫稿』は江戸時代の風俗を知る上の基本資料である。作者は喜田川守貞(きたがわもりさだ)である。天保8年(1837)から30年間書き続けられ、全35巻(前30巻・後5巻)が刊行された。図版は1600点あまり掲載され、当時の風俗を知ることが出来る。

  右の図版は「守貞漫稿」から引用複写したものであるが、新田神社の破魔矢ではないが、一般的神社のものである。
「守貞漫稿」は国立国会図書館デジタル化資料で閲覧できる。
〈場所〉大田区矢口1-21-23〈最寄りの駅〉東急目蒲線武蔵新田駅下車5分ぐらい
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