謀略で命を落とした新田義興について分かること

 

新田義興(よしおき)とは……元徳3年(1331)〜正平13年(1358)
  新田義興は、延二年(1337)に奥州の北畠顕家が西上すると彼の軍に参加、吉野で後醍醐天皇に謁見する。その後、父(新田義貞)の戦死後は越後に潜伏したと見られている。「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)が起こると、鎌倉の奪還を目指して上野国で北条時行らとともに再び挙兵する。この後、1352年に宗良親王を奉じて弟義宗、従兄弟脇屋義治と挙兵し鎌倉を一時占拠する。足利尊氏の反撃にあって鎌倉を追われる。足利尊氏が没した半年後の1358年に義興は 鎌倉奪還のため挙兵、鎌倉をめざした。これに対し尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清は、竹沢右京亮(うきょうのすけ)と江戸遠江守(とおとおみのかみ)に迎撃を命じる。劣勢の義興は一時越後に逃れる。しかし武力ある義興を恐れた幕府側は謀略で殺すため、竹沢は少将局という美女を義興に与えて巧みにとり入り謀殺の機会を狙ったが果せなかった。
  正平十三年10月10日(1358)、足利基氏と畠山国清らは竹沢右京亮と江戸遠江守に卑怯な計略を命じる。その計略とは義興を舟に誘い出し川で殺そうというものである。竹沢と江戸に言い含められた渡し守は、櫓を川に落とし拾うと見せかけて川に飛び込み舟底の栓を抜いて逃げる。あざむかれたと気が付いた時は遅く、舟は沈みかけ両側から竹沢・江戸軍に矢を射掛けられ、新田義興と13人の家来は壮絶な最後をとげる。

その後、渡し守は多摩川にて水死、江戸遠江守は義興の怨霊のため川で溺れ死ぬ姿で狂死した。竹沢や畠山も怨霊に悩んだ。義興は怨霊となり光り物(カミナリ)で人々を悩ましたため、村人は義興の霊を鎮めるため正平13年(1358)に新田神社を造る。下の浮世絵2点は筆者所蔵。




新田神社ホームページの記述から ……
『江戸時代に入ると、将軍徳川家の祖先がこの新田家であるということより、松平家から「新田大明神縁起絵巻物(都文化財)」や「新田神君碑(大田区文化財)」の奉納などもあり、武運長久の守り神として、武家信仰の神社として栄えました。その後、蘭学者である平賀源内が新田神社に参拝して、境内の不思議な篠竹で厄除開運・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めました。また、源内は江戸一族の策謀を卑劣なやり方として、この新田神社の縁起をもとに浄瑠璃・歌舞伎「神霊矢口渡」を脚色し、これが当時の江戸っ子の気質と合ったかのように、大変うけて爆発的な大当たりとなり、江戸庶民の新田詣が始まりました。現在でもこの「神霊矢口渡」の一部分が各地の歌舞伎場(地芝居)などで上演されています。』(新田神社HPより)

 
本の解題ー国立国会図書館の解説から……
「本朝武将伝」我が国の古代から近世初期まで、道臣命から豊臣秀吉まで、武将百人を選び、簡単な事跡を記して、姿絵をいれたもの。本書は明暦3年の版で、明暦2年大西与三左衛門尉俊光刊『本朝百将伝』の後刷り本。明暦2年版には武村三郎兵衛版、武村新兵衛版、伊吹権兵衛版などの後印本が有り、また宝永七年には『本朝百人武将伝』の書名で、記述を大幅に増補したものが野村、荒川相版ででている。また寛文7年には林鵞峰の『日本百将伝抄』がでる。(岡雅彦・国立国会図書館デジタルコレクション蔵) 
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