六郷の渡しを背景に見得をきる白井権八 歌舞伎「鈴ヶ森」


浮世絵データー
「東海道五十三次の内 川崎駅・白井権八」
 絵師 ・歌川豊国三代(初代国貞)  年代 ・嘉永(1852)5年5月  彫師 ・横川竹二郎、俗称・馬鹿竹  摺り ・大海屋久五郎   版元 ・辻岡屋文助

名主印・福島和十郎・村松源六  この名主印と年月印の三印時代は極めて短く嘉永五年(1852)二月から嘉永六年(1853)十一月まで。
改印・嘉永5年5月


『役者見立 東海道五十三駅』について
 
上記の『役者見立 東海道五十三駅』は通称『役者東海道』と呼ばれ、嘉永5年(1852)2月から6月にかけて板行された。最初に摺られた「役者見立 東海道五十三駅」は三点で、すでに故人になった名優「日本橋 松魚売」(三代目板東三津五郎)、「品川駅 幡随院長兵衛」(五代目松本幸四郎)、「川崎駅 白井権八」(五代目岩井半四朗)である。
  この浮世絵の見立ては、東海道の各宿場名に、芝居に登場する役柄を見立て、さらにその役に最適の役者を見立てる二段階の見立てになっている。(『図説「見立」と「やつし」―日本文化の表現方法―』編者国文学研究資料館 八木書店刊 2008年。

 歌舞伎「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)」全六幕十四場、第五段「鈴ヶ森」の場面からお尋ね者白井権八を取り上げた浮世絵である。鈴ヶ森だけでは背景として面白味に欠け、弱く、そのため六郷の渡し風景を描いたと思われる。浮世絵には詳しくないため調べて見ると、森の上の森印が早稲田大学演劇博物館所蔵の浮世絵にはない。おそらくいたずらで押された印章であろう。
  また、この浮世絵には同じ図柄で左上に役者名「岩井杜若」入りと、上の絵のように役者名のない2種類がある、役者名のない浮世絵は岩井半四郎と言われる。また興業名・外題は『見立 手鞠歌三人長兵衛』である。他に、この外題の浮世絵もあり鈴ヶ森の場面を演じている


『役者見立 東海道五十三駅』には役者名がないのは何故か
  天保の改革(1841)が頓挫した後、お上の浮世絵に対する弾圧は緩んだ、しかし版元などが自粛して自主的に名主印を入れていた時代である。この時、目立たぬように店で売ったため、浮世絵内に「シタ賣」といった印を押した。そのため役者名を書かず、風景画として出したのであろう。江戸庶民にとって役者名・岩井半四朗がなくても誰が演じているかわかったのであろう。


歌舞伎・白井権八の有名な台詞(セリフ)とは……
  この白井権八は昭和時代以前の人にとって、一度は使ったり、聞いた事のある、よく知られた舞台台詞である。江戸に向かう白井権八が鈴ヶ森にさしかかると、お尋ね者を捕らえ、賞金を手に入れようとする雲助達に取り囲まれて、大立ち回りとなる。斬りつける雲助を鮮やかに切り伏せる白井権八。

 その時の台詞、「キジも鳴かずば切られまいに…」(白井権八)と言う。それを駕籠の中から見ていた幡随院長兵衛が声をかける、「お若いのお待ちなせえやし」「待てとおとどめなさるしは拙者がことでござるかな」(白井権八)「さようさ。鎌倉方のお屋敷へ、多くの出入りのわしが商売、それをかこつけ有りようは、遊山半分江ノ島から、片瀬へかけて思わぬ暇取り、どうで泊まりは品川と、川端からの帰り駕籠、通りかかった鈴ヶ森、お若えお方のお手のうち、あまり見事と感心いたし、思わず見とれておりやした。お気づかいはございませぬ。まァ、お刀を納めなせえまし」答える幡随院長兵衛の名場面である。

天明8年(1788年)2月、中村座上演の「契情吾妻鑑」(初世・桜田治助)とされ、同じ作者による「幡随長兵衛精進俎板」で「鈴ヶ森」の原型が出来上がったと見られている。現在では「鈴ヶ森」五段のみが上演されることが多い。


実在した白井権八のモデル・平井権八
 平井権八は元鳥取藩士である、彼は父の同僚を斬り殺し江戸へ逃げた、吉原の遊女小紫に惚れ遊興費を得るために日本堤で辻切を繰り返し捕えられ鈴ヶ森で処刑された。