●「天保の改革」以後、江戸社会の変化
芝居町の賑わいは木挽町森田座の風景か、絵は寛政年間の様子であるが、すでに町民から武士階級まで集まる賑わいを見せている。時代は文化文政(1804年から1830年)の爛熟期を迎える熱い雰囲気である。これにより天保の改革まで、この雰囲気が伝わり幕府老中首座・水野忠邦の歌舞伎への締め付けを生み、役者絵(役者芝居絵)を描くことが禁止された。天保の改革が頓挫したのちも、幕府より改革の撤回の「お触れ」があるわけでなく、版元は自主規制を行い名主の改印を進め、名主が板行許可を判断して販売した。踊形容(注1)の浮世絵は弘化4年(1847)頃に目立たぬように下に置いて売るように暗黙の了解があったようである。
改革が始まった浮世絵販売の店では、目立つために、吊して売るのが一般的方法であったが、それに対し「下に置いて目立たぬように売る」と指定した。その指定が「シタ賣」印であるという。嘉永3年(1850)3月より3年間は役者絵に「シタ賣」印を押し、役者名を記さないなど「シタ賣」の改印は特異な時代の慣行であり、年代が特定できる浮世絵は嘉永期のわずか数年である。
『シタ売り』について、専門家の見解
1.『天保改革の錦絵取締りによって、最も打撃を蒙ったのは販売の多くを占めていた役者似顔絵であり、販売側は何とかこの埋め合わせをすべく、別の突破口を見出していく』と言う、これが子供踊りとか風刺画である。『申し渡しでは以前から下売をしていた役者絵に「シタ賣」印が押印されるようになったのは嘉永3年(1850)3月頃からと見られる』。この年3月に市川海老蔵が追放から江戸に帰還したため、シタ売りを守らずに吊し売りをする店が出るのを防ぐため「シタ賣」印を押したという。(浮世絵芸術143号「天保の改革と浮世絵」岩切友里子氏)
2.『 地本屋慣習史』(写本)に「猶憚りて俳優の名を掲げず、店頭には張らず、皆下売と称へ、束ね置きてこれをひさぎたり」とあるのに合致する。(浮世絵芸術143号「天保の改革と浮世絵」岩切友里子氏)。つまり、浮世絵ショップの店頭で目立つ吊し売りではなく、目立たぬように下に置いて販売しろと言うことである。
左
中
「筑波根山平」「おかん」「おさん」
「主水女房おやす」「わか者又」「わか者成」
「山口やの平」
右
●市川海老蔵の帰還を祝う浮世絵(上から左より3枚揃い)歌川国芳・画 「馬込と大田区の歴史を保存する会」所蔵
3.『嘉永三年(1850)の歌舞伎界の大きな出来事といえば、同年三月に、五代目市川海老蔵(七代目市川団十郎のこと)が、江戸に戻ってきたことであった。五代目海老蔵は、ぜいたくな生活が咎められ、天保十三年(1842)六月に江戸から追放されていた。この海老蔵の江戸帰還が、「シタ売」のきっかけの一つとなったのではないだろうか。「シタ賣」とされた絵を見ると、確かに海老蔵を描いたものが多く、この「シタ賣」が押されたのは嘉永三年三月頃であるとの説があるようだ、天保13年(1842)に江戸から追放された市川海老蔵が帰還に合わせたと考えられている。この市川海老蔵を描いた浮世絵に「シタ賣」が多いのも事実であるようだが、すべてに押されているわけではない。』(たばこと塩の博物館『天保の改革と出版物』より)
4.また、『この印の付いている錦絵に限って、なぜか安摺りの錦絵どころか「良摺りの錦絵」のほうが圧倒的に多い』(『原色浮世絵百科大事典 第三巻 様式彫摺 版元』大修館書店 1982年)と言う新藤茂氏の指摘もある。
「踊形容 」とは何を示すのか(注1)
『要するに名前と紋のない役者芝居絵のことであり、これを「役者絵」「役者似顔絵」と呼ばずに「踊形容」の名で呼んだと言うことである。』浮世絵芸術143号「天保の改革と浮世絵」岩切友里子氏
●私が浮世絵に押された「シタ賣」に興味をもったのは、建設会社の友人が古い浮世絵を見せに来た時からである。江戸幕末頃に護国寺付近で宿屋を営んでいた人の子孫から処分を頼まれたと言う。色々調べるとほとんどの浮世絵に2個以上の印があり、嘉永年間と文久年間が主体である。想像するに宿の主人が泊まり客に見せたり、江戸土産のアドバイスを与えるため集めたのではないか。かなり痛んでおり、大名行列や旗本を知る武鑑も残されていた。これ以後、資料的にヤフオクで「シタ賣」の浮世絵を手に入れた。実際の浮世絵に「シタ賣」を見る。(以下・浮世絵全部『馬込と大田区の歴史を保存する会』所蔵)