藤原時代の古仏か、謎多き古川薬師の三尊仏像

『江戸名所図絵 古川薬師』 斉藤幸雄著 長谷川雪旦画 天保5〜7(1834〜1836)大田区立郷土博物館蔵


正式名「医王山世尊院安養寺」は通称「古川薬師」「古川薬師安養寺」ともいわれる。都内では此処と国分寺にしかない古仏を持つ、藤原時代のものと見られる「木造薬師如来座像、木造釈迦如来座像、木造阿弥陀如来座像」の3座像がある。それらは都の指定文化財(重宝)である。元々はそれぞれが主尊として祭られていたと見られるが、それらの来歴は謎である。残念ながら座像は非公開である。
 藤原様式の仏像が何故、このような下流の危険なデルタ地帯に残されているのか不思議である。古代から中世にかけてこのあたりが武蔵の国の中心地であったことから、別の大きな規模の寺があり、そこから安穏寺に移されたのではないかと言われる。では元の寺がどこのあったか、まったく不明である。

安養寺の社伝(1715)によれば、行基(668〜749)の開創であると記しているが、江戸時代に作られた説であろう。行基を開創とする話は多く、全てを信じるわけには行かない。『武蔵国風土記』の記載によれば、海の近いこの場所は満田郷と呼ばれ、七堂伽藍を持つ大寺の「満田寺」があった。この話から満田寺が安穏寺である可能性も捨てきれない。現在の「安養寺」は明治末期に移築されたため、もとの場所は多摩川の河川敷内であったらしい。このため元の場所の特定が出来ず、発掘による調査が不可能である。大正7年(1918)に始まった多摩川土手改修工事により、河川敷にあった古川薬師の境内は、大幅に削られ現在の規模になった。

 江戸期には近郊の名所として知られ、おそらく「平間寺(今の川崎大師)」にお参り、帰りに「古川薬師」と「池上本門寺」に参詣して帰ったのではないか。「六郷の渡し」も往還の大事な役割を担っていたと考えられる。その証拠に古川薬師道標が行楽の目印として寺に保存されている。本殿写真の左側はすぐ多摩川の土手があり、洪水の危険と隣り合わせである。(参照・大田区史)

古川薬師写真
「 六郷の渡し」からすぐ近くにあり、参拝で賑わっていたという。本殿は正徳5年(1715)の建築である。宗派は真言宗智山派である。
道標写真
古川薬師道道標(写真右)が置かれていたのは、東海道の雑色村から多摩川沿いに向かう道の分岐場所である。当寺の道しるべであった。「六郷の渡し」から東海道を上りすぐにある。川沿いの道は、筏を運んできた筏乗りが青梅に歩いて帰る道であり、別名「筏道」と言われている。道標(角柱型)の高さは173(高さ)×36(巾)×28(奥行)センチの大きなものである。造立は延宝2年(1674)古川村の人々による。

道標の正面には、上部に梵字のマークと『古川 薬師如来江之道 六郷之内古川村・別当安養寺』、右側面には『是よりふる川屋くし江のみち』、左側面には『これより里ふ類かわやくしへ乃ミち』と刻まれている。もう一基古川薬師への道標があったが失われた。また、銀杏搾取・折取禁制石」元禄3年(1690)御利益を得るためにイチョウの木を削り取ることを禁止する道標もある。
冨士講碑について……
 当寺の冨士講碑は正面に112名の講元名と講紋を刻んでいる。年代は江戸末期頃である。石碑の背面には当寺の「百味供物講社」名も刻まれている。「百味供物講社」とは薬師の宝前に百種の供物を献じ、神体健全、病即消滅を祈願するものである。富士講碑と灯籠(1690)
イチョウの木
古川薬師(安養寺)正面、左のやや上り坂を登ると多摩川土手になる。昔は洪水の危機に怯えていたことであろう。
川瀬巴水版画
川瀬巴水の版画
 『暮れゆく古川堤』大正8年(1919)初夏、描かれている舟は川砂を運ぶ「砂利舟」である。
住所 大田区西六郷2-32-10
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