池上本門寺の春、満開の桜が生者と死者を分け隔てなく迎える
五重塔と桜

1282年、日蓮入滅の地に池上本門寺は創設された。江戸幕府初期には徳川家康により100石の寄進があり、加藤清正も寺城の整備や御堂の建造などに力を尽くし、今も残る此経難持坂の石段は彼の寄進による。また、徳川家との関係も深く現存する五重塔は、二代将軍秀忠と彼の乳母の寄進によるもので、関東地方では現存する最古で最大の五重塔である2005年に保存修理が完了した。

満開の桜、墓地には多くの桜の木があり、春には桜のトンネルとなり生者を迎える。桜の種類はわからないが白っぽく薄いピンク色である。五重塔を見る

古来から馬込付近は、古くより九十九谷と呼ばれるほど起伏に富み、谷底には葦やススキが密生する谷(ヤト)があった。小高い本門寺の丘に五重塔がそびえる景色は、夕日を受けて輝き、そのまま浮世絵の世界となった。池上本門寺からは富士山を右手に見ると、前方(蒲田方面)には海が広がり海苔が取れた。ここから羽田沖にかけては海苔の産地で「浅草海苔」の発祥地である。
 日輪信仰のためか、石段の上から見ると太陽は左より上がり、右手に没してゆく、特に夕日の落ちる姿は絶景である。私の住むマンションからも、昔は五重塔がシルエットになり、空にはトンビが回る安らぎの夕景があった。

桜と墓地写真
  〈池上本門寺炎上……大森蒲田地区大空襲〉


昭和20年(1945)4月15日夜から16日朝の大空襲  
  おもに大森、蒲田地区に集中した。B29爆撃機200機が、房総半島南部と相模湾より進入、小編隊による連続的攻撃により壊滅的な破壊を受けた。3時間ばかりの爆撃や機銃掃射で町の大部分は焼失した。特に池上本門寺は五重の塔、宝塔、総門などの一部分の建物を残しただけで焼失した。寺を守ろうとした人々の被害も多かった。この時の爆撃は、自分たちの町が狙われているとは考えずにいた人が多く、逃げ遅れ人的被害も甚大であった。また、破壊を徹底するために重油と焼夷弾を同時に投下したため町は消失した。その跡は、今でも墓地に見ることが出来る。火に焼かれ、黒く焦げたり、欠けた墓石が数多くある。墓石は替わらないことが多く戦災の跡を残す貴重なモニュメントといえる。

昭和32年(1957)10月1日発行の『日蓮宗新聞』では下記の記載がある

『その日は、昭和20年4月15日でした。本門寺に直撃弾が落ちたのは、夜の11時05分でした。安立院、東之院がはじめに炎上し、焼夷弾が雨のように落下し始めました。祖師堂の須弥壇に駆け上がってお祖師様を抱え上げ、〈中略〉、大阪の野沢氏の墓地へ避難し、十畳敷もあろう大きなカロートにお祖師様をやっとの思いでお隠し致しました。』その後、長持ち二竿を持ち出したあとは。手のつけようがなかったいう。(注)カロート、墓石の下にあり、骨壺を安置する小部屋。

『炎の中を大埜茲稔師は、国宝の祖師像を避難させ、ついで「池上兄弟鈔」などの御真筆の入った宗宝の長持二棹を持ち出し、難を逃れたことは不幸中の幸いであった。』と語っています。(「池上本門寺史」昭和56年11月10日 大本山池上本門寺発行より)


「史誌 第23号」特集/戦中・戦後の大田区より
ー本門寺空襲の思い出ー
  一本の焼夷弾が、中空で数十発に分裂して落下するので、全く雨あられという言葉通りである。本門寺は、長廊下と御供所が最初に燃え上がり、大堂への延焼が早かった。大楚慈稔氏は祖師像を持ち出し、駆けつけた三名と共に紀州家の墓地に避難した。そこで在家の墓地にお移した。また日朗上人、日輪上人の像も避難させた、また二棹を持ち出したが七棹は持ち出すことが出来なかった。
 
大埜茲稔(三十三歳)鎌倉市扇ヶ谷 薬王寺住職(昭和60年現在)

当時の文章から分かるの事は、大田区周辺の住民たちのほとんどが、自分たちが爆撃されるとは考えていなかった事である。そのため避難に遅れ、火に追われた住民の被害が大きかった。噂では「爆撃機が一度通りすぎたため
、ここが目標ではないと思い家に帰ったところに、引き返した爆撃機の爆撃にあった」らしい。

右上の写真は、戦前、昭和7年(1932)頃に撮影された祖師堂である。「池上町史」池上町史編纂会刊 昭和7年、口絵写真。写真を拡大

  大堂写真
夕焼けを受ける大堂(2008年)
5時5分頃前の大堂風景、大扉が閉まる直前の風景である。近代的な建物も夕景では落ち着いた色調になる。人の心の安らぎを招く時間帯である。
  ●下の写真は、2008年2月3日の雪降り、裏側から見た大堂。雪の池上本門寺
写真

人々は死者10万人を出した3月10日の東京大空襲の悲惨な体験から、無差別爆撃には消火などせず逃げることにしたが、それでも2日間で2000名近い死傷者をだした。死者は本門寺でも多かったという。戦争の狂気は爆撃だけでなく、低空の機銃掃射で子供や年寄り、女性まで狙った。私は昭和30年(1955)頃にこの地に引っ越してきたが、その頃もあちこちに防空壕や機銃座の跡が残っていた。(参考『大田区史』下巻 発行・大田区 平成8年刊)

右の写真は高橋松亭(弘明)の新版画「都南八景之内」池上、大正11年(1922) 仁王門であろう。

2005年三月に放映されたNHKの特集『東京大空襲』から……
 
アメリカは日本人の戦意喪失と戦争持続による自国の戦死者を少なくするために、最初から一般市民を狙ったのだという。爆撃による死者の想定も10万人と見積もっており、爆撃結果から作戦は大成功であると評価している。
他の資料でも、「爆撃による逃げ場を川の方向にするため火の壁で囲む」作戦だったという。戦争は人間を狂気に追い込み、勝者に「どんな手段で敵に打撃を与える」ことが正義であると主張させる。この都市の民間人を狙う無差別爆撃は、欧米で第一次世界大戦以後正当化され、欧米人には当然の作戦手段になってしまった。この延長線に広島・長崎の原爆投下という非人間的な行為がある。

『大きな戦争 小さな戦争 同級生が綴ったさまざまな体験記』矢口東小学校十四期生(昭和19年卒業)平成7年7月15日発行 編集責任者 杉山茂生
 
  戦時中に個人が体験した事を文章にまとめた本である。その中で池上本門寺近くに住んでいた人の文章を読むと、当時、池上本門寺が避難場所として、多くの人達が目指したようである。今は見ることがないが多くの防空壕があったようである。昭和20年4月15日夜半のB29による蒲田・大森地区の焼夷弾爆撃の様子を書いた体験記がある。本門寺全山が焼夷弾による火災で燃え上がり、逃げ込んだ多くの人達が死んだ様子が書いてある。部分的に引用することは、体験を正しく伝える事にならず、是非、本を読んで欲しい。

〈場所〉大田区池上1-1-1 〈最寄りの駅〉東急池上線池上駅下車 5分 
都営地下鉄西馬込駅下車 徒歩15分ほど
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