歌川広重の浮世絵『江戸近郊八景之内 池上晩鐘』天保年間

歌川広重の江戸近郊八景之内(8点)
 「吾嬬杜夜雨」「羽根田落雁」「行徳帰帆」「玉川秋月」「小金井橋夕照」「芝浦晴嵐」「池上晩鐘」「飛鳥山暮雪」があり、大田区に関連するものとして「玉川秋月」がある。広重には名所を描いた「近江八景」などがある。この絵を見ると江戸時代の本門寺は鬱蒼たる樹木で覆われていたことが分かる。(大田区立郷土博物館蔵


『此経難持坂』について……  
 石段は、慶長年間(1596-1615)に加藤清正が寄進造営した。『法華経』の経文にちなみ96段に作られた。そのため、別名『此経難持坂』とも言われる。元禄時代に改修が行われている。坂上から見える風景は想像出来ないほど美しかった、蒲田付近は一面の葦原で海辺に沈む太陽が見えたであろう。夕日は右側に落ちていく、富士山がシルエットになり大変綺麗である。日蓮宗は日輪にたいして信仰が強く、太陽の運動を意識した建物の位置を考えているようである。
次のページには『鬼平犯科帳』の舞台になった池上本門寺が登場します。

総門は、一間一戸の高麗門である。江戸中期の建設、おそらく、元禄三年(1690)と思われる。掲げられている扁額(へんがく)は本阿弥光悦の書を彫刻したものである。彼は熱心な法華信奉者であり、祖師堂と山門にも同筆の額が掲げられていたが前大戦で焼失した。額裏には寛永四年(1627)の墨書銘がある。

総門から始まる道「目黒道」(第二池上道)
 総門左の石材店から始まる道は、鎌倉時代以前からあったと思われる。ここより山裾に沿い日蓮宗の各寺前をすぎ、根方の猿坂から嶺道に登り、夫婦坂から荏原・中延を経て目黒不動までいけた。別称で「目黒道」「目黒・池上道」などとも言われる、確定した名称はないようだ。

 

古い写真

江戸時代の本門寺門前あたりを描いたもの。通商使節として来日したハイネが描いた。拡大表示

明治元年頃の池上本門寺の参道、撮影はベアドらしい。心なしか山が低いように感じる。
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「江戸自慢三十六興 池上本門寺会式」

歌川広重(2代) 東京都立図書館蔵
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