江戸時代の東海道「六郷渡し」巻一 江戸ヨリ戸塚マデ 絵図

−3− −2− ー1ー
東海道六郷渡し絵図

東海道 の鮫洲あたりから「六郷渡し」までの絵図である。5枚続きの絵図であるが、上図では、高輪・川崎側の2枚は部分省略してある。
 
1.鈴ヶ森ー磐井神社であろう。は、 大森ー次の名前は判別できないが八幡社(六郷神社)であろう。神社は六郷土手から数百メートルしかはなれていない。江戸時代は神社の前が東海道であったが今は違う。東海道から江戸に往還する婦女子達は鈴ヶ森を通る事を嫌いました。

2.今の梅屋敷あたりから池上道(平間街道)の『八景坂』(今のJR山王口)に迂回して南品川方面に抜けたという、その分岐点は雑色辺りと梅屋敷辺りと考える。歌川広重の『八景坂ー鎧懸け松』浮世絵に登って来る道が描かれている。 また、磐井神社の辺りには一里塚がある。

3. 渡しの場所には一里塚があり江戸からの距離を表している。一里(長さ4キロほど)の東海道沿いには旅人相手の茶店、うどんそばや、土産物店(麦細工)薬屋(和仲散)があった。渡しには筏宿(いかだやど)3軒や丸太商2軒があった。六郷は六江ろくごうと表記され街道沿いは八幡村である。
 
 絵図には河原らしき場所が示されている。川幅は普通69間(124メートルほど)、出水があると83間(150メートル)になったと言われる。絵図の方角を確認すると川崎側船着き場がやや下流に位置していることが示されている。多摩川は浅いが川の流れが速く、渡し船は流れによって下流に流されていったようだ。
 土手下の河原には、水主小屋、渡船高札場、波止場があった六郷渡しの浮世絵を見ると雰囲気が分かる。渡し賃(元禄)は、人は六文、馬は15文、軽尻馬は10文 であった。武士・僧侶などは無料である。
戻る