浮世絵にもなった『八景坂』……今のJR大森駅西口前の坂道である。
『江戸近郊八景之内 羽根田落雁』歌川広重 国立国会図書館
デジタルコレクション所蔵


名所江戸百景『八景坂鎧掛松』歌川広重 国立国会図書館
デジタルコレクション所蔵

江戸名勝図絵『八景坂夕景』 二代歌川広重(国立国会図書館
デジタルコレクション所蔵 上は八景坂への登り道、東海道の
鈴ヶ森を忌避して八景坂より南品川に向かう駕篭。

天祖神社について……
 神明社とも呼ばれたが、いつの創建かハッキリしない。八幡太郎義家が奥州征伐の時に先勝祈願をしたという、そのおり境内にあった松の木に鎧を掛けたという伝説がある。拡大表示

天祖神社写真上の浮世絵・歌川広重作『八景坂鎧掛松』は、それを題材にとった浮世絵。絵の左、茶屋あたりに神社が建てられたことになるが。天祖神社に鎧を掛けた松は枯れてなく、昭和初期までは境内に松の根幹が残されていたという。神社の前に池上道があり、JR大森駅西口前の坂が八景坂である。
 昭和初期でも、神社から大森駅を見ると屋根越しに海が見えたと言う。下の写真が現在の大森駅である。(2003年撮影)

大森駅写真伝承によれば、松は二本あったと言う
 しかし、この浮世絵では一本である。広重は同じ題材の別の絵で松を二本描いている。(次のページに詳細)知らなかったわけではなさそうだ。『江戸近郊名勝一覧』によると、『松は高さ18メートルほどもあり、枝が垂れ下がっていた』と書いている。この坂は薬研坂(やげん坂)とも野鶏坂(やけい坂)ともいわれ、江戸中頃から風光明媚な景勝地として知られていた。「六郷渡し」を渡り江戸に向かうとき、婦女子は鈴ヶ森の刑場を嫌い、避けて東海道梅屋敷付近の途中から山王近くに向かう道をとり、頂上の茶屋で休み、それから南品川に向かったらしい。別の浮世絵には右から坂を登る籠が見える。

 上の絵で、中頃の松並木あたりが今の東海道であり、それ以前は池上街道(平間街道)が鎌倉からの「下の道」であった。鎌倉から奥州に向かう三本の道の一つである。絵に描かれている道がそれである、海岸沿いではなく丘にあったのである。松越し左下の遠くに見えるのは、房総半島である。


松に鎧を掛けた八幡太郎義家について、日本各地に残る義家伝説。頼朝の奥州討伐以後、意図的に広められた。

この高台は、木原山とか陣屋山とも呼ばれ、新井宿の領主・旗本木原氏の陣屋と屋敷があった。江戸時代に此の一帯は将軍家の鷹場になっており、陣屋はその際の休息の場として使われた。また、万葉集に歌われた「荒藺崎(あらいさき)」はないかと言われ、新井宿は古代の宿駅である可能性もあり、古くから往来のあった場所である。明治9年以後、鉄道複線化と共に大森駅が出来ると、山王は外人達の避暑地として発展した。

『八景園』は、明治から大正にかけて実在した庭園である


明治の頃、天祖神社に隣接して遊園地(八景園)があった。梅や桜の名所として賑わったと言われる。その証拠として『鉄道唱歌4番目』にも『梅に名をえし大森を、過ぐれば早も川崎の、大師河原は程ちかし、急げや電気のすぐに』(明治33年 東京音樂學校講師 上眞行作曲・大阪師範學校諭 多梅稚作曲)と大森から川崎までの歌詞があり、昔は小学校で歌われていました。(写真・国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

 明治17年(1884)に久我邦太郎が一万坪を購入して八景園を造ったそうです。しかし、この遊園地も大正11年(1922)に分譲地として売り出され姿を消しました。その場所は、大森駅西口正面の高台、天祖神社の裏側に当たります。大正5年(1916)の地図で見ると、テニスコートまでの裏側一帯が『八景園』と表示されています。かなり広い部分で、現在では高級住宅地となっています。


また名前の『八景園』は景色の良い所の意味ではなく、湧水が湧く水の綺麗な崖(がけ)を「ハケ」とか「ハッケ」ということから、名付けられたと言う説もあります。
  また、
八景坂は別名「薬研坂」とも言われました。これは雨が降ると坂の下に溜まり、その様が『薬を砕く薬研(V字形の容器)に水を入れたようだ』ということから言われました。(参考『大田の史話』大田区史編纂主任専門委員 発行 大田区)

このテニスコートは明治21年(1888)には、小銃の民間練習場であった。テニスコートは三方を掘り下げた底にあり、前から不思議に思っていたのですが疑問は解けました。あとで住宅地としてテニスコートの周りは売り出されました。


  国立国会図書館収蔵写真から別の
八景園を見る。住所 山王2-8-1