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●「大師の渡し」はどこにあったのか 古い地図(大正期)を見ると「羽田の渡し」よりやや上流にあったようだ。現在の大師橋のすぐ近くにあったらしい。大師橋下流300メートルという。昔は今よりも河原が広く、イラストの地図でも分かるように河原の先まで桟橋を歩き、渡船に乗ったようだ。この河原は河川工事により浚渫(しゅんせつ)したのではないか。それでも、上の写真のように海の満潮と干潮ではかなり深さが違うようだ。 明治10年(1877)「大師の渡し」が農作業のため作られた。その後、これを利用した人たちは川崎の工場地帯に働く人々が多かった。そのため「羽田の渡し」より遅くまで営業していた。『この渡しは常設で、人力車2台に2〜30人が乗れるほどの大きな舟で夜遅くまで運行していた。一日平均208人の乗客があったという。「大師の渡し」は大師橋(昭和14年)の架設により廃止された。(参考・「多摩川における渡しから橋への史的変遷」たまがわこども文化の会・平野順治編) ●乗客は川崎側の工場に通う労働者であったようだ。昭和初期頃まで豊かな田風景のある川岸で、今のような工場街ではなかった。昭和14年(1939)に大師橋が出来て、昭和43年(1963)には首都高速横浜線が開通して橋がかけられた。「羽田の渡し」と「大師の渡し」は六郷橋の完成により廃止された。 |
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大師の渡しがあった場所 |
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●「大師の渡し」の側にある寺 | |||||||||
●羽田街道の石碑 羽田街道は現在の美原通りから、内川橋のたもとを左に曲がり「六郷の渡し」までつながっていた道である。平間寺(川崎大師)までお参りする人の裏道であった。通称「するがや通り」と言われている。 ●羽田街道の石碑と地蔵堂。 |
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●正蔵院・山門 古くは了仲寺と言ったようだが、現在は正蔵院として知られている。創建は、はっきりしない、1595年頃の「新編武蔵風土紀稿」に記載がある古い寺である。地蔵は羽田道の行き帰りの無事を祈ったものであろう。江戸末期の「木造不動明王立像」があるが非公開である。寺は、産業道路大師橋のすぐ近くである。 住所 本羽田3丁目10-8 左隣は自性院である 大田区の渡し 目次扉に戻る |
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