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『羽田落雁』歌川広重(1797〜1858)江戸近郊八景のひとつ(大田区立郷土博物館蔵) 『江戸近郊八景…羽根田』 ● 歴史のなかに羽田が登場するのは、平治年間(1159)頃と言われる。安土桃山頃には「行方弾正」により支配されていたようだ。その頃から戸数も増えて270軒ほどあったらしい。 ● 家康が入府すると、幕府に新鮮な魚介類を献上する「御菜浦」となり発展した。また、低湿地であった今の羽田飛行場あたりを、羽田猟師町の名主鈴木弥五右衛門が譲り受け、新田の開発を始めた。文政2年(1819)には、ほぼ完成の域に達した。これが「鈴木新田」である。 その時、新田を守る堤防の守り神として祭られたのが「穴守稲荷」である。浮世絵に見られるように開発された新田の中にあった。古い地図(下の写真)を見ると穴守稲荷は、海のすぐそばにある。 (2015.07.13 更新) |
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『川崎大師真景』一立齋広重(二代歌川広重)国立国会図書館デジタルコレクション蔵 ● 平間寺(へいげんじ・川崎大師)とは…… 平間寺は真言宗智山派の大本山で、金剛山金乗院平間寺と称し、 厄除弘法大師または川崎大師として、江戸時代より庶民の厚い信仰をあつめています。開創は大治年間(1126〜1131)、開山は尊賢、開基は平間兼乗と伝わる。寛政8年(1796)と文化10年(1813)には11代将軍家斉が参詣したという。大師電気鉄道 川崎 |
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●上の地図は昭和17年(1942)の羽田町部分である。中央縦に流れる川は「海老取川」で、右側が江戸時代から開発された「鈴木新田」。羽田穴守町、羽田江戸見町、羽田鈴木町がある、今この部分は全て羽田飛行場になっている。羽田2丁目と見えるが現在の番地ではない。
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●羽田の渡し跡 記念プレートや大師橋の遺構が橋の袂にある。このプレートの側に「羽田の渡し」(六左ヱ門渡)があった。古い資料・地図には産業道路と高速道路の橋の間とあるが間違いであろう。 |
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上の写真は河口方向から見た現在の大師橋(長さ553メートル、幅16メートル) |
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住所 羽田5丁目付近 最寄駅 京浜急行線 六郷土手駅 | |||||||||