家康が入府する前の江戸地は未開地が多く、太田道灌が開いた江戸城は今の皇居のあたりであり、海辺の丘に立つ大変粗末な館であったと伝わります、城下町と言っても、わずか100軒ほどの民家しかなかったと言う。家康が大規模な土木工事で、江戸を埋め立てで発展した都でした。
徳川家康は強固な都を目指して、荏原郡(今の大田区)を江戸南郊の穀倉地帯と位置ずけ、ほとんどを幕府の直轄領としました。中でも、江戸城修築に働いた旗本木原吉次に新井宿村(大森駅前一帯)を知行地として与えたり、池上本門寺や増上寺などの幕府と関係の深い寺に寺領として与えました。今の環七沿いの馬込地区は増上寺の寺領なりました、二代将軍秀忠の御霊領として増上寺に与えられたのです。
昔から古東海道として知られた「平間街道」(相州鎌倉街道)は、平安時代から鎌倉にむかう古道として知られていました。また、平安末期に奥州征伐に向かう頼朝の主力部隊が「下道」と言われたこの道を通って行きました。「中原街道」も江戸から駿府への街道として知られていました。鎌倉時代に「中道」と言われたのが中原街道です。特に家康はこの街道が好きで、江戸幕府を開いてから駿府との往復に使っていました。江戸幕府にとって荏原郡は米や野菜と交通の要衝であったのです。そのため江戸開府直後から、平間街道を利用して六郷用水を開削、いっそうの新田開発を目指しました。
江戸が発展していく段階で「平間街道」は狭く不便になったので、大坂と江戸を結ぶ「東海道」を建設しました。この道は、江戸265年間、いちばん重要で知られた街道となりました。そのため、現在では「東海道」と言えば、海岸沿いの道だけであったと思われ、古東海道(鎌倉時代)の「平間街道」は忘れられています。平間街道を取り上げた書籍もまれです。鎌倉時代が古い歴史の中に埋もれた事も一つの要素かもしれません。
江戸が落ち着くと「平間街道」は、江戸庶民の行楽地「八景坂の花見や雪見」など、小旅行するために使われました。そこでお茶などを楽しんだあと池上本門寺に参拝して逗留したり、次の日は千束池(洗足池)を見て、中原街道から江戸まで帰ったのかもしれません。平間街道は東海道と中原街道の往還としても重要であったのです。東海道の裏街道として、忠臣蔵の大石内蔵助一行が川崎の平間村に逗留した後、「平間渡し」から江戸入りしたと言われています。川崎市では観光資源として紹介されていますが、大田区に入った大石内蔵助がどの道を通り江戸の隠れ家に向かったか定かではありません。個人的な想像では、池上本門寺参拝の裏道から南品川へ出て高輪木戸を目立たぬように通過して江戸に入ったと考えます。
また、大森付近(今の山王付近)は品川宿と川崎宿の間宿としても賑わいました。六郷の渡しは、江戸入府の最後の重要な渡しでした。また、江戸時代の中頃から、川崎大師への参拝にも便利に使われました第十四代将軍徳川家茂の上洛も六郷渡しを渡河していきました。幕末には、官軍の西郷隆盛も池上本門寺理境院に宿営して江戸攻撃の評議を開いたと言われています。
●明治維新後の荏原郡……
江戸郊外の荏原群(現・大田区)は調べるほどに、維新を複雑な受け取り方をしたように思えます。明治になると幕府の相給地(旗本木原領・増上寺寺領)は、明治政府に大名屋敷と同じように収公され、地租改正により国有地となり民間に売却されていきました。将軍の菩提寺であった増上寺は、寺としての存続をかけた苦難の道を歩み始めました。広大な寺の敷地を売りながら存続していきました。増上寺寺領の馬込村なども大きな変化を受けたことでしょう、その時代の流れから歴史の滴のように落とされたのが「謎の大名屋敷門」です、馬込村在住の河原家が明治になり個人で大名屋敷門を買い、馬込の自宅前に輸送移築いたしました。江戸時代が終わり、明治維新は江戸時代の歴史を否定することから近代化を進めました、そのため江戸時代は長い間かえりみられることはありませんでした。近年、江戸時代の研究が盛んになり、再評価がされています。それまで貴重な建築遺構(大名屋敷門)は放置されていました。私が調べ始めたときには重要な史料は散失しており、藩名もあった場所も不詳で何藩の大名屋敷門か結論が出せそうもありません。大名屋敷門の謎を探る。
明治初期、日本に招聘されたお雇い外国人たちは、明治9年(1876)以後と思われますが、大森駅開業を契機として山王に住む外人が増えていきました。何時からか外人の避暑地となっていきました。その一人にアメリカ人エドワード・シルベスター・モースは車中から大森貝塚の発見してよく知られており、日本の近代化に尽くされたお雇い外国人です。江戸時代までの日本の文化を見直し、近代化を推し進めたのは彼らだったのです、インテリで時間とお金があった彼らは、珍しい日本文化を買いあさり、浮世絵を始め、仏像を含む仏教文化を本国へ持ち帰りました。その詳細は明らかでありません。
●大正から昭和へ大田区の発展変貌……
大正から昭和にかけて大田区(大森・蒲田地区)は、私鉄電車(東急電鉄や京浜急行電鉄)の開通とそれの伴う住宅地の売り出し、田園調布は裕福な中産階級たちの住宅地として発展したといえるようです。関東大震災以後、都心より文学作家が馬込村に綺麗な水や武蔵野の風景を求めて住み始めました、馬込文士村が出来あがったのです。
江戸時代に、浅草海苔の産地として知られた羽田沖も埋め立てられ、海苔の生産は昭和38年で終焉しました。埋め立てによる工業地帯の育成が始まり、京浜工業地帯として日本経済に寄与しました。戦後もその流れは変わらず、蒲田京浜地区として発展してきたのです。
バブル崩壊後、はじめて発展に停滞が生まれました。現役を離れた私は、いまいちど歴史を振り返り、懐かしい風景や事跡を求め、池上本門寺から平間街道、荏原郡馬込村の写真点描をやってみようとデジカメを持って散策に出かけました。
2010年より、これまで以上に大田区に関連する浮世絵の掲載や解説を始めました。文字だけでは江戸の雰囲気は伝えることが出来ません。歌舞伎の役者浮世絵や風景、風俗の浮世絵は写真が出現するまでの映像表現です。厳密に言えば大田区ではありませんが、鈴ヶ森を舞台とした浮世絵を掲載いたしました。江戸末期嘉永年間以後の浮世絵を紹介するページも作ろうと考えています。その中で幕末の第14代将軍徳川家茂の上洛風景を描いた『御上洛東海道』シリーズは、浮世絵が写真の持つ報道性を先取りしたものと考えています。
2011年、郷土出版社より『目で見る 大田区の100年』(仮題)写真集の協力依頼がありました。2月のことでした、出来るだけの協力を約し、写真原稿の収集先を紹介したり、資料の提供をいたしました。3月11日の東北大震災の悲劇により出版は中止になると考えていましたが、進行は継続して出版するとの連絡がありました。写真は350点近く集まり、郷土出版のスタイルに沿って編集作業に入りました。写された写真の内容を解説する資料は少なく、充分な解説を出来なかった面もあり残念です。しかし現在の出来る資料的な写真集になったと考えています。
『目で見る 大田区の100年』は大田区内の区立図書館に2冊ずつ常備され、区民が見ることが出来ます。自分が育った地域の写真を御覧になって、いま一度、大田区のことを考えてみてください。2011年8月、2013年、2018年、加筆 目次扉に戻る