●モースが行った最初の発掘の様子
明治10年10月の記述から、『 今日、ドクターマレー、彼の通訳及び私は人夫2人をつれて大森の貝塚へ行った。人夫は採取した物を何でも持って帰らせる為に連れて行ったのである。人夫達はつるはし耨(くさぎ 鍬のようなものか)で、我々は移植で掘り始めた。(中略)我々がそこを堀回した形跡は何ひとつ無くなった。大雨が一雨降った後では、ここがどんな風になったかは知る由もない。私は幸運にも堆積の上部で完全な甕(かめ)二つと、粗末な骨の道具一つとを発見し、また角製の道具三つと骨製のもの一つを見つけた』。(モース「日本その日その日」東洋文庫 平凡社刊から)
● モースが最初に掘った場所がどこか明らかでない、大田区と品川区が競って記念碑を建てており、どちらも国指定史跡となっている。また国指定の史跡は記念碑の建っているわずか28.57uと言う狭さである、これは発掘場所が不明なためである。品川区では区立歴史館建設の時に、現在記念碑の建っているを場所を国鉄より買い取り調査を行った。
●大森貝塚の発掘品について……明治12年(1879)本格的発掘調査始まる
発掘された遺物は、縄文式後期の土器や土偶、石斧、石鏃、骨角器など、動物の骨はサル、シカ、犬、鯨を含む大量の貝殻でした。モースは発見された土器に「コード・マーク」と名づけました。土器の表面にナワ目模様が付いていたのです。驚くことに人骨も発見され、その骨が削られたりしていたことから、「食人」の風習があったのではないかと推測されました、未だ結論は出ていません。
●大森貝塚の発掘場所は「品川区大井」であった。本当は大井貝塚となるはずだったが、モース達が大森駅に降りて発掘に向かったため、駅名をとって「大森貝塚」となった。貝塚公園は正確に言うならば品川区に属すようです。大田区の石碑(昭和5年4月)はNTTデータービルの間を入った線路ぎわにあります。昭和29年国指定の遺跡に認定された。参考・『東京都品川区 大森貝塚』編集・発行
品川区教育委員会 昭和60年発行
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