ー日本考古学の夜明け、モースが発見した大森貝塚ー


大森貝塚碑(大田区設置)昭和5年4月
 
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モースが行った最初の発掘の様子
 明治10年10月の記述から、『 今日、ドクターマレー、彼の通訳及び私は人夫2人をつれて大森の貝塚へ行った。人夫
は採取した物を何でも持って帰らせる為に連れて行ったのである。人夫達はつるはし耨(くさぎ 鍬のようなものか)で、我々は移植で掘り始めた。(中略)我々がそこを堀回した形跡は何ひとつ無くなった。大雨が一雨降った後では、ここがどんな風になったかは知る由もない。私は幸運にも堆積の上部で完全な甕(かめ)二つと、粗末な骨の道具一つとを発見し、また角製の道具三つと骨製のもの一つを見つけた』。(モース「日本その日その日」東洋文庫 平凡社刊から)
モースが最初に掘った場所がどこか明らかでない、大田区と品川区が競って記念碑を建てており、どちらも国指定史跡となっている。また国指定の史跡は記念碑の建っているわずか28.57uと言う狭さである、これは発掘場所が不明なためである。品川区では区立歴史館建設の時に、現在記念碑の建っているを場所を国鉄より買い取り調査を行った。

大森貝塚の発掘品について……明治12年(1879)本格的発掘調査始まる
 発掘された遺物は、縄文式後期の土器や土偶、石斧、石鏃、骨角器など、動物の骨はサル、シカ、犬、鯨を含む大量の貝殻でした。モースは発見された土器に「コード・マーク」と名づけました。土器の表面にナワ目模様が付いていたのです。驚くことに人骨も発見され、その骨が削られたりしていたことから、「食人」の風習があったのではないかと推測されました、未だ結論は出ていません。

大森貝塚の発掘場所は「品川区大井」であった。本当は大井貝塚となるはずだったが、モース達が大森駅に降りて発掘に向かったため、駅名をとって「大森貝塚」となった。貝塚公園は正確に言うならば品川区に属すようです。大田区の石碑(昭和5年4月)はNTTデータービルの間を入った線路ぎわにあります。昭和29年国指定の遺跡に認定された。参考・『東京都品川区 大森貝塚』編集・発行 品川区教育委員会 昭和60年発行
 

 
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大田区のプレート


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貝塚公園(品川区)から東海道線を見る、発掘当時の海側は平坦で、東京湾の海岸線まで見えた。貝塚を作った人たちは、縄文時代後期、紀元前650年頃と推定されています。


 

埴輪形の公園トイレ(品川区の公園)
埴輪の形の公園トイレ、工夫があっておもしろい。公園はやや小高い丘にあり、東海道線越しに見える蒲田方向は低い平らな土地である。汽車の開通当時は東京湾の海が広がっていた。 

 

大田区の遺跡・貝塚
  大田区は武蔵野台地の東端にあたり、縄文時代の大森貝塚は海に面したはずれにあたります。台地の湧水が豊富で、関東ローム層の軟らかい土のため洞窟や集落を作りやすかった、そのために縄文弥生時代から人が住んでいました。区全体に遺跡が数多くあります。しかし鉄道が開通すると同時に、今と同じように宅地開発が行われ、遺跡が充分な調査を行われないまま工事され、古代の遺跡は破壊されました。特に明治の文学者「江見水蔭」が実名で貝塚の場所を紹介したため、中馬込の遺跡(馬籠貝塚)は調査がされないまま、素人の発掘者のため荒れ果ててしまいました。畑の表面近くに土器などが埋まっていたため、手軽に掘ることが出来た事が要因でした。目次扉に戻る