明治から大正、江見水蔭の冒険小説で有名になった馬篭貝塚(まごめかいずか)

  黄色い部分が馬篭貝塚と推定される所
江見水陰(本名、江見忠功)1869〜1934年
 
明治中期から昭和初期にかけて活躍した小説家である。代表的な著作として『自己中心明治文壇史』がある。明治33年頃より品川に在住した、相撲が大好きで自宅に土俵をこしらえたほどである。現在の国技館(明治42年)は彼の命名による。
  
また、彼は貝塚の発掘にも熱心で、その始まりは、今はない大井の「権現台貝塚」発掘である。明治35年(1902)9月頃より始まり、次に大森から馬込付近、果ては関東一円にまで及んだ。情熱に任せた遺跡収集であり、やたらと掘りまくる発掘は乱獲と非難されたが、まだ学門として考古学がない壮明期であり、乱獲は無理のないところである。しかし東京人類学会に入り寄稿するなど貢献した。また小説も書いた。博文館発行の雑誌「太陽」を始め、少年向けの雑誌「少年世界」「中学世界」に実名で土地の名前をあげた小説を発表した。そのため大勢の少年読者が貝塚にやってきて掘り返した、十分な研究されないうちに住宅化の波が貝塚を消滅させた。彼は太古遺跡研究会(明治38年5月発足)を造り主宰した。また自宅に太古遺物陳列所を造り発掘した遺物を公開した。


江見水蔭の考古学三部作
1.『地底探検記』明治40年(1907)博文館刊
2.『探検実記 地中の秘密』明治42年(1909) 博文館刊
青空文庫にある末吉の貝塚
3.『考古小説 三千年前』大正6年(1917)青空文庫にある。この小説を読むと馬込の具体的な地名が書いてあり、そのため、好奇心に溢れた人たちがやって来て、乱掘された。三千年前
青空文庫とは著作権の消滅したり、著作権者の許諾を得た文学作品などをネット上に公開して誰でも見られるようにしたものである。上池上・根方地図拡大表示
写真
馬篭貝塚の範囲
 
  江見水蔭から始まった馬篭貝塚発掘は、昭和10年(1935)に考古学者の発掘・研究が行われた、初期の馬篭貝塚は範囲を広げ、環七の新馬込橋から新幹線までの内側として、夫婦坂バス通りを底辺とする中馬込1〜3丁目、上池台5丁目の三角形である。
 新馬込橋から見た風景は、川瀬巴水の名作「馬込の月」を生んだ。そこには昭和初期の長閑な田園風景が広がり、縄文人が採取した豊かな海の幸の跡(貝塚)を埋めた緩やかな台地が見られる。昭和30年頃まで畑が広がっていた。その後、急速に宅地化が進んで。今では畑すら殆ど見ることは出来ない住宅地となった。

目黒道 馬籠貝塚付近地図


現在の上池台から夫婦坂に向かうバス通りの両側は、明治から大正にかけて多くの発掘マニア・考古学ファンの人達が押し寄せた場所である。
  現風景からは想像も出来ないが、この右上の台地は縄文や弥生時代の貝塚が密集する地帯であった。縄文時代には、このバス通りまで海が谷の部分にまで入り込んで来ており南向きで暖かく海の幸の豊かな場所だった。
  もちろん大田区は貝塚・横穴墓などの遺跡が数多くある、その中でこの「馬篭貝塚」を有名にした要因は何か、明治の小説家 江見水蔭が馬篭(まごめ)を舞台に実名で古代冒険小説を書いたからである。 それは、テレビのワイドショーがセンセーショナルに事件を取り上げるように、貝塚を紹介したためである。


明治42年(1909)に探検実記と称した『地中の秘密』が博文館より発売された。作品は34点収録されており、その一つが『馬籠と根方』である。

『馬篭の貝塚と根方の貝塚とは、池上街道を挟んで両側に分布する。併し、大概我々はそれを馬篭の名の下に一括している。別に理由はないが、最初は根方の貝塚をも、馬篭だと信じて居たからで。地名表には目方としてあるために、他を探して居て、根方を過ぎながら、それを知らなかったのだ。
 余の最初に此の地を探検したのは、三十五年の十二月二十六日であった。それから殆ど毎週一度は、表面採取に通って居た。茶店の老人夫婦とは懇意になって『旦那又石拾ひですか。そう始終見えては、もう有りますまい』と笑われる位にまでなった。
  打石斧、磨石斧、石鏃、把手、破片、土瓶の口、そんな物は、どのくらい数多く採取したか知れぬが、未だ発掘をして見たことがないで、茶店の息子を介して、地主の政右衛門といふ人を説き、其人の持地を発掘する事に成った。(中略)それは根方地で、街道から南面し、右手に小径がある。それを曲がってから、又右手の畑が目的地だ。(中略)同月二十八日には、幻翁玄子と余との三人で出掛けた。今日は馬篭方で街道を小径の左手で、地主も異なるのである。
 ここは先年、幻翁が、香炉形その他の大珍品を出した遺跡の続きなので、いかにも有望に考へられたのである。』(原文から紹介)(参考資料 『品川の原始・古代』品川区教育委員会 平成17年)

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