川瀬巴水の描く大田区13風景、東京20景のひとつ 海外で有名な「馬込の月」

川瀬巴水浮世絵

川瀬巴水 明治16年(1883)〜昭和32年(1957)

 川瀬巴水(本名、文治郎)は、
日本より海外で評価が高い作家である。皮肉なことに浮世絵の評価が海外から生まれた歴史を考えれば、今だにその流れを受け継いでいるようである。
近年、アップルの創始者ステーブ・ジョブスが東京に来た時、川瀬巴水の新版画を見て『全て欲しい、集めてほしい』といったと伝わる。
巴水は東京芝で生まれた(現在の住所、新橋5ー6)。27才(1909年)の時に鏑木清方に入門し日本画を学び「巴水」の雅号を受ける。
大正7年(1918)に同門の伊藤深水が発表した連作版画『近江八景』を見て、その日本画にない斬新さに感激する。おそらく自分の向いている表現方法は、版画にあると考えたのであろうか、すぐに版画を創ろうと考え、同年に処女作「塩原おかね路」を発表する。川P巴水は生涯に600点ほどの作品を製作したと言われる。

 彼の版画は、版元・渡辺庄三郎(1885〜1962)が提唱した江戸時代からの伝統的制作手法により出版された。この版画は「新版画」と言われ、伝統的制作方法に新しい時代の感覚を加えたものである。川瀬巴水は題材に日本の風景を選び、そこに暮らす人々の様子を詩情溢れる版画に表現した。
  私は川瀬巴水が版画の中に描いた一瞬の情景、夕景や影になった詩情溢れる風景、光と一瞬の時間が作りあげる風景が好きです。日本画より強く光(光の方向・コントラストではない)を意識した版画、それが新版画になったと考えています。江戸後期、日本に入ってきたカメラ・オブスキューラ(カメラ)を意識する、意識しないにかかわらず、その影響を受けていると思います、時代によって、与えられた影響があるのではないかと感じています。川瀬巴水は全国を歩き日本の風景を版画にしました。川瀬巴水は自分の風景版画を次のように述べています。

『写生し版画に制作し其の場所に時も日も天候も同じに皆様を立たしてお見せしたいと同様になればそれでいいので、筆者の満足この上なしです。』(『川瀬巴水』特別展図録 大田区立郷土博物館刊 2007年)
  写真は「馬込の月」昭和5年(1930)拡大表示

 これは大変素直な言葉だと思います。明治、大正、昭和と時代の変化の中に身を置いた巴水は、変化してゆく日本の風景に敏感でした。特に身近な風景が変化して、壊れてゆくことに気づいたのでしょう、自分の見た風景を忠実に残しておこうと考えたのではないでしょうか、私は「巴水の版画」からそんな風に感じています。彼の版画があるからこそ、馬込の失われた風景を懐かしむことが出来るのです。残念なことに都市化の波は馬込にも押し寄せ、巴水の描いた馬込の風景は見ることがなくなりました。

川瀬巴水の住んだ馬込……最後は上池台の地で死去。
川瀬巴水は大正15年(1926)に大森新井宿子母沢(現・大田区中央4-12)に住み、その後、昭和5年(1930)に馬込町平張975番地(現・南馬込3-17、区立馬込第二小学校の裏あたり)に移り住んだ。第二次世界大戦中は那須塩原に疎開したが、戦後、昭和23年(1948)から池上町1127番地(現・上池台2-33 都立荏原病院の側)に戻り、昭和32年(1957)74才でこの地で没した。墓は万福寺(世田谷区烏山町)にある。
三本松のあった場所

川瀬巴水の『馬込の月』がどこから見られて描かれたか判明した。
 昭和5年(1930)に制作された『馬込の月』は、この地区が戦前から戦後にかけて耕地整理などにより再開発され、描かれた三本松も失われたため正確な位置は不明であった。その後、北馬込2丁目28番の天祖神社が『馬込の月』の場所であると確定された。また、川瀬巴水自筆のスケッチに『馬込堂寺』と書かれている、スケッチをした場所であろう。五反田方向から横浜方向を見ている。(左地図参照 上が荏原町方向、右側が五反田・品川方向、下側が馬込・大森方向である。地図は『昭和7年9月新区内町界町名整理案図(荏原郡)』(大田区郷土博物館蔵)地図を拡大

左側は一面の小高い丘である、縄文・弥生 時代は人が住んだ住居があったらしく、明治になり文学者・江見水陰(えみすいいん)が古代の人が住んだ貝塚であると冒険小説で紹介した、そのため一大考古学ブームが起きて人々が殺到して掘り起こした。江見水陰自身も掘り起こした考古物を飾っていたという。本人は節度ある発掘をしていたが、紹介した本で地名を実名紹介したため、大森辺りから歩いてやって来た発掘者があっという間に掘り尽くしてしまった。日本にはまだ考古学という概念はなかった。江見水陰は戸越銀座に住んでいた。品川区ホームページで詳しい。


川瀬巴水の版画、大田の風景―13点
東京20景 「池上市之倉 夕景」 昭和3年(1928)大田区立郷土博物館蔵
「矢口」 昭和3年(1928)大田区立郷土博物館蔵
「千束池」 昭和3年(1928)大田区立郷土博物館蔵
「馬込の月」 昭和5年(1930)大田区立郷土博物館蔵
「大森海岸」 昭和5年(1930)大田区立郷土博物館蔵
「池上本門寺之塔」 昭和3年(1928)個人蔵
「池上本門寺」 昭和6年(1931)個人蔵
「昇る月」 昭和6年(1931)大田区立郷土博物館蔵
「森ケ崎乃夕陽」 昭和7年(1932)渡邊木版美術画舗蔵
「洗足池乃残雪」 昭和26年(1951)渡邊木版美術画舗蔵
「池上本門寺之塔」 昭和29年(1954)大田区立郷土博物館
「池上乃雪」 昭和31年(1956) 大田区立郷土博物館
「暮れゆく古川堤」 大正8年(1919)大田区立郷土博物館
川瀬巴水の水彩画ー1点
「雪月花 森ケ崎 」大正11年(1922)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

右の写真は、環状七号線に架かる陸橋の「新馬込橋」
と橋の欄干にある 「馬込の月」のレリーフである。
右側が北馬込2ー28で、馬込の月の民家がこのあたり
にあったと言われる場所である。
新馬込橋写真
環七から見た新馬込橋
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