目黒道の夫婦坂付近は縄文人が生活した跡、馬込貝塚がある
イラスト地図
ー上記地図の説明ー
1、昭和9年(1634)までかかった耕地整理によるバス通り、夫婦坂上よりほぼ直線の坂道。
2、猿坂を登りきったところ、第二京浜国道からの嶺道にぶつかるT路あたり。
3、猿坂からの分かれ道、小池の脇を通り中原街道に突き当たる。江戸時代には、旗の台を過ぎて目黒まで行けたのではないか、現在その道はない。
4、下の池は、小池である。現在はかなり小さくなっている。
5、中原街道である、中原街道の難所と言われる大坂にかかるあたりか。
6、林昌寺あたりの目黒道から道々橋村を越えて呑川側沿いに中原街道に向かう、途中から左に折れると御嶽山やぬめり坂を下って鵜の木へ光明寺、筏道から平間の渡し、矢口渡、多摩川沿いに羽田方向へ行ける。
、水色は低地の谷部分である。泉により水量は豊かで縄文人が住んだ頃は海辺であった。明治初期まで貝塚があった。
 
 

目黒道(府道66号線)は江戸時代以前からの古道である
  江戸開闢以来、海沿いの東海道が出来るまで目黒道(府道66号線)は、中原街道から池上本門寺へ行く重要な街道であった。池上本門寺の総門から始まるこの道は、本門寺の寺社前を通り、林昌寺を越えてから猿坂の登り、現在の環七を越えて荏原町から目黒までつながっていた道である。
  猿坂あたり一帯は縄文時代の集落であった。地図の薄青色は、縄文時代には浅瀬の海であり、南向きの温暖な入り江であった。また此処に縄文人が住んだのは湧水が豊かにあり、洗足池・小池からの豊かな真水が流れていたからではないか。


昭和28年 大田区制作の「土木概念図」(大田区の主要な道路図)

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