● 馬込村増上寺領の土地を示す絵地図
地図上、左を上下に貫く道が中原街道である。馬込村は、池上付近から現在の北千束・南千束を含めた大きな村であった。絵図の薄いクリーム色部分で家の形があるところが増上寺御霊屋領(おたまやりょう)を示す。
『増上寺領は、方丈領・隠居領・安国殿領は方丈支配、諸御霊領は輪番支配である』『御霊領には、古領・新領の別がある』『古領とは、寛永十一年に寄進された台徳院・崇源院御霊領十二カ村をいい、それ以降、寄進された御霊領を新領といい区別している』(『増上寺史料集 第八巻』大本山増上寺発行 増上寺史料編纂所 続群書類従完成会発売 昭和59年)、馬込村は二代将軍秀忠・台徳院の御霊領として、寛永11年(1634)5月23日に寄進された、毎年388石を納め、寛永から安政2年までの記録が増上寺史料に記されている。
馬込村は『旧高旧領取調帳 関東編 日本史料選書』(木村 礎著 近藤出版 1980年刊)によると、幕領258石、旗本木原領312石、増上寺領388石、万福寺領6石の相給地である。4カ所に支配される村である、中でも木原領は義民六人衆で知られているが、馬込に増上寺領があったことはあまり知られていない。図の中で赤丸が馬込村鎮守様八幡神社である。
● 増上寺の馬込村支配の様子
増上寺に388石(388俵の米)を毎年納める。助郷役・鷹狩人足・国役金等の負担は免除され、代わりに御用米人足・草刈人足など村から人馬を提供する。具体的には年貢を運ぶ御用人足、真乗院・瑞連院などと、増上寺宿坊の泊まり人足などである。金納化された課役には、水夫給(年貢米運搬時の船頭へお金)・箒(ほうき)・増上寺から村に通達を運ぶ人足代などがある。これらは「十七箇条の定書」(川崎の王禅寺にだされたもの)によるものと同じと考えられる。実際、支配に当たったのは「輪番」と言われる寺僧で、その下に実務をする地方調役(じかたしらべやく)・地方勘定役がいた。
地方調役(じかたしらべやく)は、寺領諸村の巡回、領内の調査や取り締まり、年貢収納の監督などの仕事で2名が選ばれた。また俗人(村人などから選出か)から、輪番附小役人・蔵番(輪番役人の下役)が2名選ばれた。私は西馬込中丸の河原氏も、これらの役を務めたのではないかと考えるが、それを示す具体的資料はない。
上記の地図を作ったのは、旗本木原領の名主・加藤家であるが、増上寺馬込領の名主が誰であったか、確かな記録はない。増上寺史料には、「馬込村名主 彌五左衛門」(元禄4年)、同人は池上本門寺前名主としても登場する。下記、慶応元年奉納「馬込八幡神社」狛犬台座にある名前の中に増上寺課役を務めた人間がいると考える。(「太田区史 中巻」大田区発行 平成4年)
《17条の定書》寺領支配の様子 |
- 01.公儀法度の遵守
02.一味徒党の禁止
03.公儀よりの触・配布の迅速な伝達
04.毎年六月中の宗門人別帳の作成
05.田畑永代売買の禁止
06.潰れ百姓が出たあとに新百姓を仕付けること
07.年貢米を極月六日までに皆済すること
08.年貢米を霜月中に納入すること
09.年貢米納入以前に他所へ新米を売ることの禁止
10. 年貢が納入出来そうもない百姓がいた場合、名主・年寄りが相談の上、その百姓の諸作立毛を差し押さえること
11.年貢納入に際し、無手形の取引をしないこと
12.田畑境・村境の争論の禁止
13.治・利水施設の保持ならびに道橋の修復
14.村々の出入りの回避
15.博打諸勝負の禁止
16.諸事心付けに過分の儀が無いようにすること
17.地借・店借の届け出
以上は正徳三年 (1713)11月5日に王禅寺村に出されたものであるが 、寺領の基本的な定書であると考えられている。(太田区史 中巻)
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増上寺と馬込村の結びつき……
『諸村では報恩のため、毎月台徳院・崇源院(秀忠の妻)の命日は農業休日と定めて村ごとに集まり念仏を唱えることにし、他村なみの諸役が免除される特権が与えられるようになったのである。』(「江戸近郊農村と地方巧者」村上
直著 (有)大河書房 2004年刊) この文章から想像するに馬込村と増上寺の結びつきは、現在の我々が考える以上のものであり、その関係から大名屋敷門の仲介・購入話があったのではないかと考える。
●金融機関としての増上寺 ……次ページに詳細
江戸時代には現在のような金融機関はなかったが、多彩な金貸しがいた。時代劇で有名な「札差」「大名貸し」は勿論のこと、士農工商の身分により違う金融業者(金貸し)がいた。武士は札差から米を担保に金を借り、町民の場合には色々な金貸し「烏金」「車借金」などの高利貸しがいた。また、あまり知られていないが、寺も有力な金融業者であった。
寺は農民から土地を担保に金を貸した。当然なことに、増上寺領の馬込村なども増上寺から金を借りたであろう、この時に、増上寺と農民との間に立ったのが増上寺貸附所である。実務を行ったのは、増上寺輪番の寺から委託を受けた村の輪番附小役人である。おそらく、この役を受けたのが、中丸の河原七左右衛門氏達(名主)ではなかったかと考える。また、出資金として増上寺に出し利益を得たと言われるが、確かな史料はない。
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