創建は鎌倉時代頃と言われ、江戸期文化13年(1194)に再興された八幡神社

写真狛犬右
阿像・子供を抱きかかえている拡大表示

狛犬阿像後ろ写真
写真上と右は阿像・子供を足下に
置いている。
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狛犬左写真
狛犬吽像後ろ写真

狛犬について……》
 上の写真左は、子供を抱いた「子取りの阿像」であろう。右側も同じ子供を抱いている阿像であろう。大田区の狛犬は、左右とも阿像が多いようだ、まだ、データーが少ないので確定的なことはこれからの調査による。

馬込八幡神社  慶応元年(1865)地元三村氏子達の奉納である。
狛犬の台座にある刻印、左狛犬
奉納 慶応元年(1865)
根古谷(ねごや)鈴木平吉
根古谷 加藤高五右衛門
中丸  河原七左右衛門
平張  加藤庄右衛門・加藤半右衛門・加藤○○○門・加藤権十郎・加藤重治郎・加藤平十郎・加藤太左右衛門・山崎市右衛門・山崎彦右衛門・加藤武兵衛・加藤権兵衛
   願主  加藤藤右衛門


狛犬の台座にある刻印、右阿像
臼田又右衛門・臼田善五郎・臼田甚右五郎・臼田佐古右衛門
       
金子徳兵衛・金子平三郎・平林権四郎・山崎七郎左衛門・金子傳右衛門・
金子郷右衛門・金子善十郎・金子善四郎・加藤友右衛門
   願主  加藤藤右衛門


写真表門
鳥居写真馬込八幡神社

八幡神社について……
 江戸時代 馬込村の名主高山幸右衛門が荒廃した神社を再興したと言われている。また、別の説では建久5年(1194)に渡辺対馬守正久が男山八幡宮を勧請したのが始まりだと言うがはっきりしない。明治の神仏分離により、別当である長遠寺より社地をはっきりさせるため境界に塀を造った。およそ430坪が分離されたと古文書(明治2年)にある。(大田区史資料)

稲荷社の石碑写真 江戸名所図絵には
、梶原氏累代の鎮守であると記載あり。祭神は品陀和気命(ほむだわけのみこと)、応神天皇である。伝承に寄れば、八幡様と隣の長遠寺あたりの領域は安土桃山時代頃には「梶原三河守」の屋敷跡(馬込城)であるという。台地下には馬込九十九谷の地形を利用し空堀があった。写真は稲荷社の碑2007.10.09更新

棟門がある神社はあまり多くない、古材の記名によれば建築は明治4年(1871)であるらしい。昔の写真(明治34年頃)を見ると、注連縄(しめなわ)は鳥居に飾られていた。
写真 末社

上の写真は境内の末社(稲荷神社、三峯神社、氷川神社)。大田区の文化財資料によれば、右に見える稲荷社に寛政9年(1797)の神狐像があると記載されていたが、今回、訪ねてみると新しい狐像に替わっていた。
神社前の道について……
 神社前のバス道は、馬込台地の嶺道(みねみち)で、池上道から臼田坂を登り、荏原町を通り中原街道につながる古い街道「田無街道」である。
  神社左にある坂は「南坂」と呼ばれ、池上の根方(林昌寺付近)、第二池上道につながる。また、神社前の馬込小学校脇の道は、万福寺裏を通り、山王の方向から南品川に行ける道になる。次のページに馬込小学校の時計台があります。住所 大田区南馬込5-2-11