徳川幕府の菩提寺であった増上寺は明治維新でどうなったのか

『江戸の高利貸 旗本・御家人と札差』北原 進著 吉川弘文館  2008年刊 

江戸の金融に詳しい本である。幕府の菩提寺増上寺の貸附所(かしつけしょ)は江戸随一の金融機関であった。江戸時代にも、寺は金融機関の役割を果たし、中でも増上寺と上野の寛永寺は幕府も一目置く寺社であった。札差のように貸し倒れする金融機関ではなかった、幕府の庇護があったからである。
  名目金の名前による増上寺の高利貸金業……    

『五摂家・宮門跡・寺社・大名などが、祠堂金(しどうきん)や修復料の名目をつけて大いに高利貸業を行っていたことも、近世における金融史上の特徴である。』、祠堂金とは寺院の修理費の積立金である。(『江戸の高利貸 旗本・御家人と札差』北原 進著 吉川弘文館  2008年刊 )

 中世でもこれらの高利貸業はあったが『近世になるとこれらの名目金は幕府の貸付金に準ずるものとして、賃借訴訟がおこされると優先的に取り上げられるなどの保護が与えられた。座頭金などの名目と同じである。幕府にとっては、保護特権を与えることによって、宮門跡や寺社に対する援助金を、少しでも節約出来ると考えたのであろうか』(同書)

 『名目金を貸し出す大寺社には、勘定に明るい町人がついて、武士や一般の庶民を対象に、大いに貸し出された。その資金は必ずしも寺社や門跡・摂家らの自己資金ではなく、町人らが差加金(さしくわえきん)と称して出資したものが多かった』(同書)、つまり他人から出資された資金に、名目を付けて貸し出した。これは寺社が上前をはねているようなものである。

 『その期間が厳格なことと、礼金あるいは筆墨料といった差し引き金、利子以外の裏利子というべき負担が大きかった点にある。当時は元金100両、期間4〜5ヶ月で、礼金5両が相場であったという史料もある。これだけでも年12〜15パーセントになる。さらに筆墨料が同じくらい取られるとすれば、証文に記された利子と裏利子との合計は、四割以上の高利に達する』(同書)。

 

『増上寺史』村上博了著 大本山増上寺刊 昭和49年(1974)11月1日……
  『増上寺貸附所は江戸随一の金融機関であったことは、よく知られていたので、軍資金を必要とした東征軍がその調達を命じたことに不思議はないけれども、幕府瓦解後の大混乱時、ましてよろず一新の非常時であり、貸附所の貸付金は巨額であったが、一山数千人と十四万ヵ寺におよぶ一宗寺院の生活費であり、寺院永続の祠堂金(しどうきん)であった。』(「増上寺史」村上博了著 大本山増上寺刊 昭和49年11月1日(1974)

これら寺社の貸付金を「名目金貸付」と呼んでいる。この名目金に出資する裕福な町民・農民がいた、それは、安全な運用先であったからである。

明治元年(1808)4月、『18日に三条実美付属の参謀土方大一郎 、万里小路弁士、木村主説が増上寺録所にきて、大総督名で献金と借金ついで兵部省では『野史』の献本を命じたのである。(増上寺史)

 『土方参謀とたびたび応酬して任意献金とし、応分の御用を果たした。この時の金は東征軍の軍資金として五稜郭にまで用いたもので、古老僧のあるものは十万両であった。または二十万両であったとも伝えられる。』(増上寺史)

 どちらの金額にしても巨額であり、おそらく江戸城の金蔵から押収した金額と同じか上回る金額であった。下の年表に見るように東征軍も増上寺側も金を意識した動きをしている。
  この時に、増上寺寺領馬込村はどうなったか、確かな資料はない。明治4年(1871)の寺社領没収により、おそらく国に土地を没収され、のちに売却されたのであろう。馬込領の人たちに優先的に売却されたのかどうか判らない。


これが、いまでは余り知られていない江戸時代の金融の姿であり、増上寺が幕府の庇護を受け、滞った債権の回収に「触れ流し」と呼ばれる幕府の督促状がでる有利な貸付状況であった。江戸有数の大寺社増上寺の裏面史である。上野の寛永寺では、貸付を三井両替店 に委託していた。増上寺でも同じように委託していたか、その史料はないが、馬込中丸の河原氏も貸付所に参加していた可能性はある。増上寺領の民間部分を扱っていたと考える。江戸時代はお寺さんが、現在の金融機関の役割を果たし農民の助けをしていた。

年表
抜粋
明治1年3月12日 増上寺にて16日まで天璋院の依頼により国家安全の祈願を行う(増上寺日鑑)
明治1年3月26日 官軍東海道先鋒、増上寺へ止宿す(慶喜公御実記)
明治1年4月2日 薩摩藩、増上寺山内広度院はじめ子院16カ所に宿陣す(増上寺日鑑)
明治1年7月 増上寺山内浄運寺・林松院・朝廷への献金、徳川家御用金弁金、でき得る限り配慮すべきことを本坊役所に建言す(浄土宗大年表、増上寺日鑑)
明治1年12月23日 お手当米売却などして御殿へ千両奉る。増上寺、寺領の年貢は横浜へ納めるように村々へ通知する。
明治2年17日 徳川家御金蔵よりの御手配金途絶える
明治2年17日 貸付金取り立てに難渋する(増上寺日鑑)
   
『大本山増上寺史 年表編』大本山増上寺刊 平成11年12月佛日

これらの増上寺史料から考えられる事は何か(私見)
 
  増上寺寺領・馬込村の河原家先祖は、明治維新で急速に逼迫した増上寺から『是非、どこどこの大名屋敷門を買ってほしい』などの話、又は強い要請があったのではないか。貸付金は明治政府の方針で全て回収不能になった。苦しむ増上寺は元大名家の債権を、建物などを売却することにより少しでも回収しようとしたのではないか。豪農と言われる河原家とはいえ、明治31年(1898)でも、門を解体移築する事は多額の費用が掛かり、誰でも伊達や酔狂で買えるものでない。買える資力があるからこそ、また、増上寺との関わりがあったからこそ購入・移築話があったと考える。(私見)


『余談であるが、明治維新により徳川幕府が倒れ、駿府藩70万石になると旗本・御家人に蔵米を担保に金を貸していた札差も没落した。追い打ちをかけるように明治元年(1868)12月、浅草蔵前一帯の大火により札差の家も焼け、江戸時代にあれほど繁栄をした札差達は撲滅した。』(『江戸の高利貸し』より)

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