下丸子蓮光院にある大名屋敷門の藩名や場所の謎を探る
(注)下に詳細目次が有ります


大田区下丸子の「寿福院 蓮光院」に江戸時代の小大名の屋敷門がある。もと西馬込中丸の豪農河原家が所有していたが、昭和14年頃(1925)に第二京浜国道(現在の第一国道)の建設により門は撤去され、大田区に寄贈された。その後、下丸子の蓮光院門前に移築された。
 残念なことに、門を所有していた大名藩名や詳細がわからない。江戸時代の有職故実
『青標紙』によると、大名屋敷の門は石高により厳しく門構えを決められており勝手に作ることは禁止されていた。青標紙から門の格式を見ると5万石以下の大名屋敷門で、2万石クラスの小大名であることは疑いがなく、このクラスの大名屋敷門は、現存数が少なく極めて貴重である。昭和39年(1964)4月に東京都指定文化財に認定された。(詳細目次がページ下にあります)


蓮光院の大名家屋敷門

門番のいた片番所(左側のみ


裏側から見た大名屋敷門 拡大表示

門上部の不思議な開口部


櫻の一枚板の扉  門の梁部分
門から見た連光院本堂である、昔の大名屋敷門も、
藩主が出立の時は、このように開けられた。
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寿福院 蓮光院について
  寿福院 蓮光院の開基年代はハッキリしない、享保元年(1716)に火災により焼失、翌年堂宇は再建された。昭和14年(1939)に本堂、庫裡、山門を整備とある。この時に河原家より移築されたらしい。このあたりの詳細は不明である。昭和20年の戦災で山門以外は焼失した、昭和31年(1956)に本堂、庫裡、書院を整備して現在に至る。

 何故、連光院に移築されたか不明であったが、その謎が氷解した。大田区史によれば、『連光院は池田藩の菩提寺であったことから、池田藩の大名屋敷門と思われ蓮光院に移築されたらしい。』 ただ、池田藩と言うが、池田光政が治めた岡山藩31万5000石ではなく、その支藩である鴨方藩(2万五千石)か生坂藩(1万五千石)を示すと思われるが違うと考える。しかし独立した別藩ではなく、本藩に含まれる支藩である。生坂藩の江戸藩邸を見るとわずか950坪ほどの拝領地である。近くの長崎肥前福江藩1万2600石の拝領地が2500坪と比べると大名の扱いとは思えない。(住所・大田区下丸子3ー19ー7)

大田区史の記述を検証する。池田藩 詳細

唯一の文字資料 新版『大森風土記』杉原庄之助著 大森史跡研究会編・発行 昭和10年9月(1935)


大田区の調査から「蓮光院大名屋敷門」の建築データー 『大田区の歴史的建造物』(大田区の文化財 第34集 大田区教委委員会)より
 
構造 一重、入母屋、浅瓦葺き、中央部に両開き扉、出格子付片番所、片潜門
規模 桁行八間柱真々 48尺6寸2分(14,730ミリ)   梁間三間柱真々 17尺2寸4分(5,220ミリ)建築年代 江戸時代末期(19世紀中頃)
 
  文化財の特色(東京都指定文化財)
小大名格の武家屋敷門として格調正しい様式を備えており、その構造、形式共によく保存されている。家格に応ずる江戸期の武家屋敷門のうちでも、特に保存例の少ない1〜5万石の小大名格の形式を良く伝えるもので、希少な
東京都指定文化財である。

  解説 昭和14年(1939)
頃、馬込中丸の河原氏から寄進移築された。河原氏が池田山の備前岡山藩池田家(31万5000石)、または芝区毛利家(長州府中藩毛利家5万石)、豊後佐伯家2万石(萩毛利家とは血園関係にない)など諸説があるが確かな公的記載が無く不明であった。下記の各目次で解明をしています。
  住所・東京都大田区下丸子3ー19ー7   東急多摩川線 最寄り駅・下丸子下車5分ほど(詳細目次がページ下にあります)


 

青標紙江戸時代の資料『青標紙』(あおびょうし)で門の形から藩の石高を調べると、2万石格の大名屋敷門であった。
江戸時代後期、大名家屋敷門は幕府より大名格式(石高)による門扉、くぐり戸、門番所の形態が厳格に定められていた。
江戸時代に武家故実を解説した小型本(折り本)『青標紙』は、天保10年(1839)と11年(1840)の2回発刊された、その中に大名屋敷の門と門番所についての絵を載せている、これは文化6年(1809)に定められていた大名屋敷門の格式を記載したと考えられている。青標紙より他の大名屋敷イラストを見る大野広城について

刊行者・大野広城(幕臣小十人組・国学者 1797〜1841没) 通称・忍軒、忍之屋。 彼は『青標紙』を出したため、幕府に睨まれ天保11年(1840)に九鬼式部少輔の丹波国綾部藩にお預けとなり、同年9月に死亡した、一説には境遇に悲観した憤死と言われる。この本の内容は、大正時代に復刻刊行された『江戸叢書』によって全容を知ることが出来る。また「青標紙」原本は国立国会図書館に所蔵・デジタル公開されている。(右写真は国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の該当ページである)

『青標紙』から大名家石高を推理する。  
  右上の青標紙イラストを見てほしい、「入母屋桟瓦葺、両側に番所、両側の潜り戸は片開き」の大名屋敷門である。写真と比べると蓮光院の門は、5万石以下の大名家屋敷門であると確認できる。また、片番所なので石高も1〜2万石の小大名である事が推定される。

 
 

文中の説明にあるように、国持ち大名の支藩もこの定めに入る。毛利藩支藩の長府藩5万石もこの定めに従って長門門であるが、番所は右側のみである。ここにも同じ外様でも違いが付けられている。

佐伯藩は2万石なので左番所だけである。


また『青標紙』(上記写真)には、『右国(持)家の長屋三間梁、万石以上長屋二間半梁、万石以下長屋二間梁の事。但し、表門に家々之紋附る事。国家併に定鑑間・柳間・交代寄合抔に限る。』の記述もある。本の発行部数は300部ぐらいの少部数であった。本(写真)のタイトルは併設タイトルの「心得艸」(こころえぐさ)である。(国会図書館にあり)
  小大名家屋敷門に定紋を附けることもあったようだが、現存する大名屋敷門とその資料が少ないため「家紋」の詳細は分からない。専門家によれば「大名屋敷に紋は付けない事が一般的である」と言う。
また、大名屋敷門の様式規定は、貞享年中(1685)には、イラストのように規定された。『また表門に家紋を付けることが出来るのは、国持大名か、帝鑑柳間交代寄合の家格に限られた』(『江戸と江戸城』内藤 昌著 SD選書 鹿島出版研究所 昭和41年2月28日刊より))、この規定は『青標紙』に受け継がれた。(2014年4月)

青標紙の文章によれば、藩の家紋を付けることが出来たのは国持大名、帝鑑の間の大名、柳間の大名、及び交代寄合に限ると規定されていた。(参照)『江戸叢書書』12巻、巻の2 江戸叢書刊行会 大正5年(1916)から大正6年(1917)刊、 この本に『青標紙』(天保11年)の原文が掲載されている。
(国立国会図書館デジタル化資料所蔵)

青標紙について……
  『青標紙』とは江戸時代後期、天保時代に出版された「武家故実書」である。これらの解説をしたのが小十人(こじゅうにん)組の旗本であり、国学者の大野広城(おおのひろき 1797〜1741年)である、通称を権之丞、号は忍軒・忍之屋と言った。

『内容は、「武家諸法度」(ぶけしょはっと)、「御定書」(おさだめがき)のほか、屋敷や武具、各種衣服、関所通行等に関する規程や先例等々。また「非常心得掟書」として謹慎中の留意点も詳細に記載されています。天保12年に『武家必携殿居嚢』『泰平年表』と共に絶版処分を受けました。展示資料は、元老院旧蔵。全2帖。』(国立公文書館の解説)

藤川貞(号は整斎)の雑録『天保雑記』(全55冊) 『大野権之丞広城(おおの・ごんのじょうひろき)が、丹波国綾部藩主九鬼隆都(くき・たかひろ)に預けられた一件書類は、藤川貞(号は整斎)の雑録『天保雑記』に「大野権之進(丞)御預一件」と題して書きとめられています。』


また、罪状の詳細は、『天保12年(1841)6月10日、評定所で54歳の広城に申し渡された罪状は、「御政務筋に拘(かかわ)り候不容易事共(よういならざることども)彫刻いたし、絵本屋伊助え相渡候段不届之至に候」というもの。16歳の長男鏃之助に対しても、改易の処分が下されました。当時、広城は小十人(こじゅうにん)本多左京組に所属。評定所で判決を申し渡したのは、岡村丹後守直恒(大目付)。遠山左衛門尉景元(町奉行)と桜井庄兵衛勝彦(目付)が審理に加わっていました。』 『展示資料には、大野父子だけでなく、『殿居嚢』『青標紙』等を武家に販売して利益を得た伊助、喜兵衛らが「江戸払(えどばらい)」(追放刑の一種)になったことや、天保13年に鏃之助が幽囚中に没して綾部に埋葬された亡父の墓参を許されたこと、そして広城の辞世なども記されています。』(国立公文書館 展示資料より)      

幕臣として必要な知識を簡単に得られる書物を手元に置きたい。『武家必携殿居 嚢ぶけひっすとのいぶくろ』は、そんな要望に応えて出版された書。前編が天保8年(1837)、後編が同10年に刊行。懐中可能な小型の折本(おりほん)の表裏に、江戸城の詳細な行事カレンダー、老中以下諸役一覧、服喪の規程、江戸城内や日光山の略図など、多彩な情報が収録されています。  

『青標紙』は天保11年(1840)と天保12年(1841)の2回出版されている、幕府にとって法令等が知られることは不都合であり、天保11年6月9日に、大野広城は幕府より綾部藩に永の御預けになり青標紙も発禁となった。同年9月11日に死亡している、一説には憤死、又は自裁と言われている。

「青標紙」の原本は国立国会図書館と国立公文書館にあり、復刻版は『江戸叢書』巻2 江戸叢書刊行会 大正6年(1917)として刊行されている。(太田図書館に所蔵)

青標紙によれば、大田区蓮光寺の大名屋敷門は、外様大名の1万〜2万石の藩であることが明確である。

《考察の方向 目次》2019年4月 更新・修正 
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