大名屋敷門は、第二国道工事の予定地になったため移築された |
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●地図は昭和14年(1939)頃の馬込地区 (西馬込あたり)である。↓ |
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地図の出典は『コンサイス 大東京地図』東京地形社刊 昭和13年6月5日(80版)である。
大田区はなく大森区と蒲田区である。上の地図は大森区の部分である。池上本門寺のすぐ近くを完成した第二京浜国道(二国・現在の第一国道)が走っている。馬込地区は、今だ耕地整理による完成した道は描かれてなく、昔からの曲がった道である。桐里町の上に見える道は、現在の桜並木で内川が暗渠化されておらず、部分的に小川になっている。それが道に挟まれた溝として表現されている。内川が暗渠化されたのは、昭和30年代である。下に耕地整理した後の地図があります、(上は、ポケットサイズ コンサイス地図写真)
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第二京浜国道について
大田区発刊の『大田区史』には、西馬込地区は大田区内で、最も地形が変化した場所であり、原型をとどめない変化をしたとあるが、その原因は第二京浜国道の建設にある。
戦前、第一京浜道路(現在の国道15号)が交通量の増大のため飽和状態になり、新しい道路が計画された。その道路は、昭和15年(1940)のオリンピックを招聘するために、横浜に着いた外国船から帝都東京に外人客を運ぶため計画されたオリンピック道路である。マラソンコースとして使用することも視野にあった。日本の国威掲揚のため、4車線の車道(高速車線と緩速車線)、中央線には植木(イチョウ)を植えた緩衝帯、車道の両脇には排水溝を作る、専用の歩道、歩道には電気設備・電話設備を埋めて、電柱はなくすなど当時最新の道路であった。また、早く首都に運ぶために、出来うる限り直線道路とした。
松原橋など幹線と交差するところはすべて立体交差とした。また、鶴見の響橋は、マラソンコースの折り返し地点としてのランドマークとする。戦前の国際情勢変化により、残念な事にオリンピックは開催されなかったが、戦時中は戦闘機の不時着に備えるため、中央緩衝帯は取り払われたらしい。(確かな資料はありません)
第二京浜国道が 、いかに大変な工事であったか「第二京浜国道の建設」ページを御覧ください。
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●写真は、馬込坂下から池上本門寺方向を見たところ、右側マンション郡の半分ほどの高さにあった岡を切通しの道とした。2014年撮影
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●下丸子蓮光院に移築された大名屋敷門が、現在可能性の高い佐伯藩上屋敷(西新橋)か、長州(萩藩)の支藩・
長府藩毛利家の大名屋敷門(目黒今里村)にせよ、現地で門を解体して大森区馬込町三丁目(現在の西馬込2丁目)の河原家門前まで、運ぶことは容易ではない。地図は昭和10年(1935)の馬込地区であるが、西馬込地区は、耕地整理の予定道路が点線で描かれおり、道路はまだ出来ていない。近くの大森まで出るのに大変苦労したと古老の話。
室町時代からの道路としては、池上本門寺総門から始まり、目黒へは、猿坂から中原街道を越える『目黒道』、平間街道新井宿から臼田坂を登り荏原町へ、田無まで行く『田無街道』(澤田街道)がメインである。これらの道に繋がる曲がりくねった道が古い道である。西馬込地区に、古い道は驚くほど少なく、大名屋敷門を購入した明治30年(1898)に、旧馬込西三丁目(緑点)に運ぶことは大変であったろう。
● 耕地整理は、昭和10年頃始まり、14年頃完了したようである。地図上の 枡目直線道路が、耕地整理で出来た新しい道である。私は、耕地整理で生まれた道が、現在の住みやすい住環境を造ったと考えている、当時、馬込地区の地主達が、町のために私欲を捨て団結したと考えている。
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● 地主が自分の土地を道路に供出(約20パーセント)することを嫌い、耕地整理がうまく行かなかった場所は道路が狭いままである。人口増加による住宅建設が始まり、道路を広げることは出来なくなった。現在も、道幅が狭く軽自動車も通行出来ない。木造家屋が多く、将来心配される地震災害では、火事の発生予想され延焼が危惧される。
●明治31年(1898)、帝都東京の中心から、解体された大名屋敷はどの道路から西馬込までやってきたのか。中原街道からと考える。
1. 長府藩毛利家下屋敷の目黒(白金)からだと、中原街道を目黒街道が交差するあたり、都立荏原病院方向へ左折、猿坂の峰道を南坂(長遠寺横の坂)に下がると、現在の西馬込あたりに出る。
2. 大名屋敷門が、佐伯藩上屋敷であっても、愛宕下から中原街道に出たのではないか、東海道の南品川から平間街道(池上道)大森山王に出て、池上本門寺方向から西馬込へは大回りである。明治31年(1898)の大名屋敷購入は道路事情も悪く、大変費用が掛かる話である。購入費用、運ぶ費用、解体再構築費用と考えると道楽や酔狂でやれるものではない。やはり、増上寺から何らかの働きかけがあり、江戸時代の関係から河原氏が一肌脱いだと考えるのが、自然な話ではないかと思う。
大名屋敷門は、昭和14年(1939)に河原家から大田区に寄贈され、下丸子蓮光院に移築された。昭和14年(1839)の耕地整理、昭和11年(1936)着工した第二京浜国道工事が、工事の邪魔になる大名屋敷門移築を求めたのではないか。
●地図上の説明…
1.移築された大名屋敷門は緑丸(西馬込駅)から五反田より半径100メートル以内にあった。
2.西馬込あたりの耕地整理は、昭和10年(1935)に始まる。昭和14年(1939)頃に完了した。
3.昭和11年(1936)10月内務省起工 東京新国道開鑿が始まる。丘の斜面に坂道を造る難工事であった。
4.耕地整理と国道建設で掘り出された人骨が閻魔堂に葬られ、無縁霊位の碑が建てられている。 |
1. 長府藩毛利家下屋敷の目黒(白金)からだと、中原街道を目黒街道が交差するあたり、都立荏原病院方向へ左折、猿坂の峰道を南坂(長遠寺横の坂)に下がると、現在の西馬込あたりに出る。
2. 大名屋敷門が、佐伯藩上屋敷であっても、愛宕下から中原街道に出たのではないか、東海道の南品川から平間街道(池上道)大森山王に出て、池上本門寺方向から西馬込へは大回りである。明治31年(1898)の大名屋敷購入は道路事情も悪く、大変費用が掛かる話である。購入費用、運ぶ費用、解体再構築費用と考えると道楽や酔狂でやれるものではない。やはり、増上寺から何らかの働きかけがあり、江戸時代の関係から河原氏が一肌脱いだと考えるのが、自然な話ではないかと思う。
大名屋敷門は、昭和14年(1939)に河原家から大田区に寄贈され、下丸子蓮光院に移築された。昭和14年(1839)の耕地整理、昭和11年(1936)着工した第二京浜国道工事が、工事の邪魔になる大名屋敷門移築を求めたのではないか。
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国策である第二国道の建設、馬込坂が完成に近づき 大名屋敷移築が急がれた(昭和14年頃) |
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過去にも例を見ない難工事であった。馬込坂は多くの犠牲の上に完成した。着工から完成までわずか3年間である、完成は昭和14年(1939)の事である。同じ頃、六郷橋(多摩川)も完成を見る。いよいよ大名屋敷門の移築を急がねばならない、移築の詳細な記録は不明だが、第二回目の移築であり、寄贈された大田区も当然に大名屋敷門の由来を訪ねたはずである。すでに明治から40数年を過ぎており、河原家も代替わりをしているとしても一代である。大名屋敷門の藩名や所在地が不明とは考えられない。もし分からなければ解体した時に棟札を確認するチャンスが三度あったはずである。
移築は急がれていた、解体した部材をトラックに積み運んだ先ですぐに組立たねばならない。そう考えると完成した第二国道からほぼ直線で行ける蓮行院は願ったりの移築先であったろう。
いつからか、この大名屋敷門が池田藩のものとなったか不明だが、大田区では『大田区史の記述にある』と言う。しかし、大田区史の編集者で執筆もされた新倉氏は、「大田区ガイド」の本で『新版大森風土記』杉原著(昭和10年)からの引用として『芝区の毛利公の上屋敷門』としている。池田藩は白銀(現在の五反田池田山)に下屋敷を構えていた。池田山の備前池田藩大名屋敷は昭和初期頃から造成が始まり、昭和14年頃から大々的に高級住宅分譲地として販売された。当時、かなり話題になったであろう。ここから単純に、蓮行院に運ばれる大名屋敷門が池田藩の屋敷門になった可能性もある。
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