戦争を挟んで、完成に22年間も費やした第二京浜国道(別名二国)

第二京浜国道の馬込坂(写真上)
  東海道新幹線歩道陸橋の上から見たところ、左は臼田坂からの嶺道(田無街道)。突き当たりに馬込小学校の校舎がみえる。その前は馬込八幡神社と長遠寺、その横に、昔は馬込小学校にあった時計台がある。
 第二京浜国道左車線、ほぼ中央あたり左が長遠寺の裏手。長い坂を下りたきったところが西馬込、写真右の突き当たり付近が池上本門寺裏門付近、約1.5から2キロに渡る直線区間である。

〈第二京浜国道の歴史・詳細 〉
馬込八幡神社裏には長遠寺の墓地がある。墓地の台地を削り第二京浜国道が造られた。この時に、坂下の伝承「馬込城」の空堀が埋められたらしい。

第二京浜国道の建設決定……昭和初期の馬込地区を見る
 
  昭和9年(1934)1月、内務省土木会議道路部会では、京浜道路(現在の国道15号)の飽和状態を受け、京浜間を連絡する国道新道を決定した、政府が直接管理し工事費を1560万円とした。また、京浜間の補助路線たる府県道(現・国道15号)は改良する事も併せて決定した。 昭和11年(1936)10月に着工した。
  道路幅は25メートル(西大崎から多摩川新鉄橋まで)とし、川崎からは22メートルとした。新しい試みとして主要道路との交差はロータリーに、鉄道は立体交差とす。また、車線は高速車線と緩速車道(3.5メートル)の地下に電信・電話・電灯施設は埋設されており電柱はなくした。また、交通事故にも配慮してカーブは半径500メートル以下として、車のスピードアップにも考慮した。道路の排水設備は車道の両脇に排水口を付けた。排水は歩道の地下に埋設した陶菅に流すようにした。当時の技術を駆使した近代的な道路を計画した。何故そこまでしたのか、昭和15年(1940)に開催予定のオリンピック招致を目指したからである。横浜港に着いた外人観光客を帝都東京に運ぶため近代的な道路にする必要があった。今では取り払らわれてないが、車道中央にはイチョウを植えた緩衝帯があった。東京市側は昭和16年(1941)に多摩川まで完成した。


 工事は日華事変(日中戦争 1937〜1945年)により中断されたが、戦後再開されて多摩川大橋が完成したのは昭和24年(1949)である。この2年後には五反田までバス運行が開始された。第二京浜国道が全線開通したのは昭和34年(1959)である、完成まで22年間の年月が費やされた。昭和27年(1952)12月4日の新道路法で第一国道となり、従来の第一国道(第一京浜)は国道15号と変更された。現在は東京都地下鉄事業で最初の都営地下鉄1号線(浅草線)が西馬込(終点)まで開通している。その後、昭和40年代に改築が行われ現在のようになった。(『大田区史(資料)民俗』大田区刊)、内務省東京土木出張所発行『行詰れる京浜国道』1935年(昭和10年)3月。

第二京浜国道は台地の斜面に、直線の道路を造る難工事であった、土木機械などない鍬とトロッコの時代である。また平行する耕地整理工事も大変であった。南向き斜面である長遠寺では横穴墓などが数多く発見された。その人骨は、地元の有志により「無縁霊位」に葬むられ供養された。(「無縁霊位」の記載、昭和15年(1940)9月設立、焔魔堂墓地にあり) 

無縁霊位』碑の記載から……
「無縁霊位」の碑(焔魔堂墓地

  『当墓地に埋葬されている180人あまりの精霊は、昭和9年(1934)4月、馬込第三耕地整理組合道路工事、並びに昭和11年(1936)10月内務省起工、東京新京浜国道開鑿(さく)中に発掘されたものにて、去る1300年以前、横穴墓古墳の骨である。有志相はかり英魂を慰め、ここに無縁塔を建設す 昭和15年9月』とある。

発起人、河原源一 河原半七郎 河原金太郎 河原弥助 河原勝之助 嵯峨濃喜久一郎 久保井銀治郎 高橋清太郎 高橋庄蔵 高瀬三次郎 嵯峨濃 央 河原元一の12名である。当時の人達の祖先を敬う崇敬の念は江戸時代から続いた民間信仰の伝統である。また、これらの人達が当時の馬込中丸付近を
纏めていたと考えている。

 馬込坂坂上には新幹線の高架橋があり、陸橋下に「品鶴線」(現・横須賀線など)が走り、戦中は軍需物資を運んだといわれた貨物線である。この線路を守るため、線路わきの台地あちこちに機関銃座跡のコンクリートがあった。また、あちこちに防空壕が斜面に掘られており、私が馬込に越してきた昭和32年(1957)頃にも戦争の跡が残っていた。現在の都営地下鉄西馬込駅南口には「バカ山」といわれた小山があり、斜面には防空壕が掘られていた。
  いまは駅を造るため、山は崩され平地になっている。五反田から来ると新幹線高架橋をすぎて長い下り坂(馬込坂)になる。多摩川までの最後のきつい坂であり、
横浜方向から来ると雪降りの日は登れない、そのため車で大渋滞となる、昔は坂の途中に滑り止めの砂箱が置かれていた。この辺りは国道工事により昔の地形を想像することが出来ないほど変化した(昭和4年頃の馬込地区を見る)

写真上が、長遠寺の墓地裏手、第二京浜国道建設で台地斜面が削り取られていて、高い壁となっている。台地の斜面部分を削り、その土砂を谷に投げ入れたのではないか。大田区でもこの近辺が一番地形が変わったところである。当時作られたマンホール(右)は、現在も見ることの出来る。


馬込坂上から川崎・横浜方。建設当時は右側に谷があり草地が広がっていた

写真は、五反田の桐ヶ谷へ向かう交差点付近から見た五反田方向、左側に見える煙突は星製薬工場のもの、現在は五反田TOCとなっている。撮影は、昭和28年(1953)で戦後の雰囲気がする。戦後に植えられたらしい植木がある、現在はない。馬込坂もこのように見えたに相違ない
第二京浜国道建設の資料と参考図書


「新京濱(36号)国道新設工事」昭和13年2月号(14巻2号)
内務省横濱土木出張所所長 春木節朗
  『本工事は既に飽和状態に達したる現国道の交通を緩和するを使命として着手せられたものであるが、軍事上も亦其重要性が期待せらるゝ路線である。』とある、このような記述から第二京浜国道は軍事道路と思われ、緊急時には戦闘機が発着すると噂になった。しかし、そのような訓練がなされた事実はない。
 川崎市側は、『川崎市元木町64番地に事務所を置き横浜市神奈川区、同鶴見区、川崎市内に3工場を設け施工するものである。既に土地買収、物件移転の大半を完了し、溝橋工事も着々進めつつある。橋梁の主なるものは7箇所あるが橋梁工事は昭和13年度から本格的に施工する想定である。』とある。東京側の資料は見当たらない、戦災で失われたのだろうか。  『 第二京浜国道と鶴見めがね橋物語』サトウマコト編著(株)230クラブ発行 2002年刊

「新京濱(36号)国道新設工事」川崎市小向地区、
「新京濱(36号)国道新設工事」
鶴見区新生安橋(めがね橋)
『第二京浜国道と鶴見めがね橋物語』
 第二京浜国道について総合的に取り上げた唯一の単行本。資料や写真が数多く取り上げられている、残念な事に筆者の住む鶴見が中心で大田区馬込の記述がない。
『 第二京浜国道と鶴見めがね橋物語』 サトウマコト編著(株)230クラブ発行 2002年刊
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