大田区史の誤認を地図と池田藩資料から検証する。


《大名屋敷門藩名の謎を、地図と資料から考察する》

  伝承ー1……「大名屋敷門は五反田池田山の岡山藩下屋敷門」である。これは大田区の認識であるが、備前 岡山藩池田家(31万5000石)の大崎下屋敷とは根拠の無い伝承である。下屋敷を考証する。


  江戸切絵図「目黒白銀辺図」景山致恭,戸松昌訓,井山能知・編 嘉永2年(1849)尾張屋清七出版 国立国会図書館デジタルコレクション所蔵。 赤丸が大崎下屋敷である。
現在の住所では品川区東五反田5丁目である(『江戸復元・江戸情報地図 六千五百分の一』朝日新聞刊)

大崎下屋敷の成立
明暦3年(1657)に発生した江戸の大半が焼失し、大名屋敷や江戸城天守閣も焼失した明暦の大火で上屋敷を始め、3ヶ所の屋敷を失った池田藩三代光政は、家督を譲った後の住処を大崎下屋敷に決め、40年ほどをかけて周りの土地を買い求めたり、相対取引で土地を購入しました。最終的に広さは3万7000坪(拝領地18000坪・抱地19000坪)あまりになりました。敷地内中央には、10メートル程の小山があり、その頂上に屋敷があった。庭園や御菜園、材木林などもある広大な下屋敷でありました。明治2年(1869)の大名屋敷上地令により大名小路の上屋敷は取り上げられたが、大崎村の下屋敷は下賜された。
下屋敷は天和2年(1682)に深川屋敷を手放すときに移築したものです。隠居した元藩主の住まいとなる中屋敷の役割を担っていたのです。そのため下屋敷の門は上屋敷ほどではないが、31万石の格式を持つものだと考えられます、しかし別の説によれば、風雅を愛する光政が華美な大名屋敷を嫌い、屋根も茅葺きだったと言われています。門の詳細は不明です。


大崎下屋敷の規模・景観について
下屋敷の門は三ヶ所、現在の「桜田通り」方向から入る道(地図の下側)は東側の門です、道の両脇には杉林があり表門に向かう道です。南の裏門は五反田方向から目黒に向かう「花房通り」からの登り道である。北に「目黒通り」方向からの目黒門がありやや登り道です。ここからでも高台は標高差が20メートル程あったようです。地図の中央部は高台で隠居した藩主が住む屋敷がありました。池は谷底にあり池泉回遊式庭園となっており、南側高いところに「山ノ茶屋」があり、下の道から30メートルの標高差があったようです。ここから見下ろす風景は素晴らしく、遠くには富士山も見えたと思われます。東側には御殿山があり、遠方には海が見えたのでないでしょうか。また、屋敷の周りには広大な林と菜園があり、材木林は藩邸の火事に補修用として使われました。
(絵地図・江戸大崎御屋敷絵図 明和9年(1772)10月 岡山大学付属図書館蔵)


大崎下屋敷はいつ頃、高級住宅地になったのか? 下の地図は昭和5年(1930)頃の池田山付近である。地図中央の平岡辺りが屋敷のあった場所である。


   中央辺りの平岡には分譲住宅地の道路が出来て整地が終わったようである。

「東京府荏原郡大崎町全図:番地界入」川流堂著・出版 昭和5年(1930)
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵。
   
 明治になってからも廃藩置県の荒波を超えて、大崎下屋敷は池田公爵邸として存続しました。しかし時代の流れか、帝都地形図を見ると、大正10年(1921)には屋敷は撤去されたと言われ造成が始まったようです、「山ノ茶屋」の高台も平地になり、昭和5年(1930)の地図では中央に広い道路が造られています。大正14年(1925)頃から住宅造成が進み、高級住宅地として売られてゆきました。地図は広大な面積(3万7000坪)の住宅地の様子を表しています。地図中央上には池田邸分譲地と記載がありますが、何処までが高級分譲地なのか分かりませんが、下屋敷があったところが中心の高級住宅地でしょう。

 昭和60年(1985)、品川区が庭園を残すべく土地を取得し、回遊式庭園として「池田山公園」が開園いたしました。しかし公園はごく一部に過ぎません。(住所・品川区東五反田5丁目4-35)
(参考図書・『江戸大名屋敷を考える』監修・児玉幸多 編集・品川区立品川歴史館 発行者・宮田哲男 発行所・株式会社 雄山閣 2004年発行)

以上のことから、大田区蓮光院の大名屋敷門は明治30年(1898)頃に馬込中丸河原邸の門として移築されていたことから、この門は岡山藩池田家の下屋敷門ではない。


大正末期から昭和初期の池田山高級分譲地の販売は、大きな話題となり、それを聞いた大田区の人間が蓮行院の大名屋敷門は、池田山の下屋敷の門を移築したに違いないと誤認した。(私見)

浮世絵 月耕「婦人風俗尽 御殿山のさくら」国立国会図書館デジタルコレクション所蔵。
近くの御殿山の浮世絵であるが、「山ノ茶屋」からも左に海、正面に富士山が見える風光明媚な景色であったろう。


仮説ー1 池田藩の考証ー岡山新田藩の生坂藩ではない。  

岡山藩池田家31万5000石が宗家であり、他に、三男・池田忠雄の淡路国洲本藩6万石、弟・池田長吉の因幡国鳥取藩6万石があり、外様の大々名である。また支藩・鴨方藩2万5000石、生坂藩1万5000石、岡山新田藩1万5千石がある。該当するのは6万石の両藩だが、6万石のため「門構え」が違う。また両藩は麻布・白銀付近に拝領屋敷を持っていない。岡山藩の支藩(岡山新田藩1万5千石 維新後に生坂藩に改称)も上屋敷(麻布永坂町)があり、可能性があるが岡山藩に含まれる石高の小藩なので、それにしては蓮行院の門が立派すぎる。また河原家との繋がりが見いだせない。以上の事から大名屋敷門は生坂藩ではないと考える。
 
『五千分の一東京図測量原図』参謀本部陸軍部測量極 明治17年(1884)原所蔵 
国土交通局国土地理院 明治20年(1887)発行(彩色・地形図)
生坂藩の場所は「字十番」の左下である。拝領地の面積はわずか950坪あまりで、他の1万5000石大名が2500坪の拝領地なので、半分以下である。上屋敷扱いでは無い。岡山藩に生坂藩の長屋門が残されており、江戸藩邸の門も同じような長屋門であったろう。蓮行院の大名屋敷門とは番所の位置が違う。蓮行院の番所は左である、

江戸時代には、支藩として三藩が存在した。全て岡山新田藩(おかやましんでんはん)と称した。明治になり藩名は変わりそのため現在では「児島藩」「鴨方藩」「生坂藩」と呼ばれるた。これらの藩は岡山城内にあり、藩主も岡山城に詰めていた。生坂藩の屋敷が江戸にあり、一万石の大名は右側に番所が造られている。赤穂の大石内蔵助1万石の屋敷も番所は右側である。   岡山城 二の丸屋敷の対面所が存在していた、対面所の建物は明治維新後には取り壊されたが、その跡に岡山藩の支藩・生坂藩(岡山新田藩)の武家屋敷の長屋門などの建物が移築され、旧藩主池田家の事務所として利用されていた。しかし、1945年(昭和20年)6月29日の岡山空襲により長屋門と土蔵を残して焼失。林原美術館建設が建設され、焼け残った長屋門は美術館入口として、土蔵は展示室として保存・活用されている。(参照・ウィキペディア)

最初 、何故下丸子の蓮光院に大名屋敷門が移築されたか不思議であったが、その疑問が氷解した。蓮光院は池田藩の菩提寺であったことから、大名屋敷門と思われた門は移築されたらしい。探したが池田藩に結びつけた史料(河原家の譲渡資料・大田区の資料)は皆無である。