大名屋敷研究者より指摘された事柄について


定紋にこだわりすぎると誤った方向に行く。蓮光院の寺紋(家紋)は桔梗紋である可能性が高い。蓮光院に移築されたとき定紋の取り付け、瓦などの葺き替えが行われた可能性がある。

蓮光院の山門は、以下の何れかの一つと推測する
A. 3万石前後(2〜4万石)の小大名(外様?)の江戸上屋敷表門
B. 国持大名(大身)の江戸中屋敷もしくは江戸下屋敷の表門
C. 国持大名の支藩で、1〜3万石の小大名の江戸上屋敷表門
 
小大名の江戸上屋敷表門とする理由
1.冠木(本柱の上部の横木材)の位置が高いので、騎馬での通行が容易である
2.柱、梁等の木割り(寸法)が比較的大きい
3.本柱に節が見当たらない → 「鏡板」(かがみいた)
4.大門の扉を欅の一枚板とし、見せることを意識している
5.桟梁(冠木の上に掛かる梁)の先端(側面)に面取り加工が施さ れている
6.冠木に取り付けられている飾り板が青銅製で、厚身が厚い板を用いている
7.飾り板の四辺に縁があり、打たれている鋲の頭も大きく、立体的である
8.多数の鋲が飾り板の面に幾何学的に且つ均一に打たれており、意匠的である
9.金物(飾り板、八双金物、饅頭金物、鋲)の腐食具合が、ほぼ 均一である

  
国持大名の中屋敷もしくは下屋敷の表門とする理由
1.長屋門である → 建設コストが高くつくので、ある程度の経済力が必要である
2.梁間が三間ある
3.軒の高さが比較的高い
4.軒下の出し桁および腕木の木割りが大きい
 
家禄が低い国持大名の支藩の江戸上屋敷表門とする理由
1.宗藩に対して独立欲が強く、自立的な支藩は幾つかあったが、国持大名の支藩の多くは、宗藩から政治的な影響を強く受けており、多額の経済的支援も受けていたため、長屋門を建設することができた可能性がある
2.家禄は低いが、宗藩(国持大名)の威光を以ってして、格調の高い表門を建てた可能性がある 
 
諸藩の下屋敷の活用状況について
1.将軍、幕府高官、諸侯などを招いて接待する屋敷(饗応施設)
2.隠居屋敷、もしくは、藩主が息抜きするための趣味の屋敷
3.上屋敷および中屋敷に収容しきれない家臣のための住居
4.自給自足のための農地(上屋敷などへ農産物を供給)
5.馬、鷹などの飼育場および武芸の鍛錬場
6.国元から輸送された物資などの保管場所(蔵屋敷)

  
1.1〜2の場合、風流な庭園を造成し、趣のある建物を建設したので、表門として武骨な門(長屋門)が建てられた可能性は低い。
2.4〜6の場合、経費削減のため、表門は簡素な構造であったと考えられる。簡素な順に塀重門、冠木門、腕木門、棟門、 薬医門の何れかの型式であったと考えられる。
3.6の場合、長屋門であった可能性は考えられるが、簡素な門もしくは、表門を含めた屋敷外周の長屋全体を土蔵作り(総塗込め造りの耐火仕様)にした可能性が考えられる。
4.小大名は経済的に余力がなかったので、建設コストの高い長屋門を下屋敷に建てた可能性は、非常に低い。
5.江戸下屋敷は基本的に江戸の郊外に立地していたため、威厳や格式を示す必要がなく、余計な経費や労力をかけなかった傾向にある。但し、上記の1〜2は例外である。
6.家格の高い国持大名に限定して考察すると、江戸の中心部に近い場所にあった屋敷については、下屋敷であっても門構えが長屋門であった可能性は考えられる。 蓮光院の山門の梁間は三間なので、国持大名の中屋敷もしくは下屋敷の表門であった可能性が考えられる。

これからの方向性……
 まず、地域は限定したい。芝あたりの範囲を中心に目黒・麻布・赤坂あたりまで含めた「2万石前後5万石までの大名上屋敷」「国持ち大名の中屋敷、江戸屋敷の下屋敷」「国持大名 の支藩、屋敷門」を古地図から探す事を始める。次のページへ


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