推理−3 耳で聞いた大名毛利家は森家(もりけ)である可能性

 伝承資料の確認
『明治31年(1898)に馬込中丸の河原久輝家が、芝の毛利家から譲り受け、表門として用いていたが、昭和14年(1939)に当院に移築された。都内でも珍しい武家屋敷門の遺存例であり、保存もよいので都の文化財に指定されている』
『東京史跡ガイド1 大田区史跡散歩』新倉善之著 学生社刊 昭和53年 (注、文化財指定は昭和39年4月28日)


《芝白金の今里村に「毛利家」又は「森家」大名屋敷存在の可能性はあるのか》2011年9月資料を探る

地図から探る大名屋敷の藩名……可能性は佐伯藩(さいきはん)である

  弘化三年(1846)の地図(近代沿革図・三田図書館刊 参照)によれば、白金今里村付近に「大名の森家」は見あたらない、しかし、増上寺下屋敷が上下大崎村にあった。今里村に道ひとつ隔てた高輪側である。偶然か屋敷の斜め前が、毛利安房守下屋敷(佐伯藩下屋敷)である、九州豊後・毛利家佐伯藩2万石の下屋敷である。明治の頃は芝区(芝白金猿町)であり、また毛利家の本名は森である。伝承資料の文章と矛盾しない。下屋敷の門ではなく、佐伯藩上屋敷の門を河原久輝氏が買ったとしたら、蓮光院の門が立派であることも理解できる。河原久輝氏は昭和6年(1931)発行の「東京府江原馬込町全図:番地界入」(川流堂小林又七出版 昭和6年)に河原邸として記載あるほどの豪農である。勿論、関与仲介が増上寺であることが前提となるであろう。

豊後 毛利家 佐伯藩2万石の藩屋敷
上屋敷 愛宕下佐久間小路 芝区南佐久間2丁目 1114坪 寛文から嘉永元年(1848)4382坪(安政年間)
  中屋敷 土器町 詳細は不明
   下屋敷 白金今里村 現・港区白金台2-15 芝区白金今里村 4401坪 弘化元年(1844)12月
 下屋敷 木挽町五丁目裏築地 535坪 享和元年(1801)
 下屋敷 本所亀沢町 400坪 天保7年(1836)

 下屋敷 広尾下渋谷 3780坪 文化8年(1811)6月9日

  上屋敷は江戸時代寛永の頃から大名小路(現・丸の内)にあり、寛文以後、佐久間小路と名称され明治まで替わらなかったようだ。
参照『東京市史稿 市街編 弟四十九』東京都編集・発行 昭和35年3月15日
(注)「復元・江戸情報地図」朝日新聞社 2001年刊では、上屋敷面積が4382坪となっている。
 

増上寺下屋敷と佐伯藩下屋敷の位置  


弘化三年(1846)御府内地図から、地図中央やや上が毛利安房守下屋敷(佐伯藩)、左側中央が増上寺下屋敷である。明治の頃は芝の白金猿町と言われたようだ、現在の高輪3丁目である。
参照『東京都港区 近代沿革集 高輪・白金・港南』東京都港区三田図書館刊 昭和47年。

下の地図は同じ三田図書館刊の「近代沿革集」から、愛宕下佐久間小路の佐伯藩上屋敷である(文久2年)1862年。薄いオレンジ部分の「毛利安房守」が上屋敷である。愛宕下の大名小路とも言われた。『東京都港区 近代沿革集 新橋・芝公園・芝大門・浜松町・海岸』東京都港区三田図書館刊 昭和51年。

明治になり皇居前・丸の内あたりは政府に収公され、政府の役所、役人などの屋敷となったり、明治17年(1884)旧大名家が華族になると、大名屋敷のひとつは私邸として下げ渡された。佐伯藩最後の藩主毛利家12代高兼(たかあき)は子爵となり、華族となった。


佐久間小路の佐伯藩上屋敷(毛利安房守屋敷)現在の西新橋1丁目と2丁目の境の道



文久2年(1862)地図、「近代沿革図」
港区立三田図書館 発行


明治9年(1876)「明治東京全図」市原正秀市販の地図(下)では、佐伯藩上屋敷は毛利高謙と表示されており、子爵となった毛利家12代高兼(たかあき)の土地(私有地)となっている。このため土地売却が明治30年頃まで遅れた可能性がある。地図上の記号「花」とは何か正式な地図記号ではなく、私見では華族を表す「花」ではないか。


当時の三菱でも資金難に陥り、購入した土地は30年間ほど建物のない原っぱであった。油絵は最初の頃の洋館のひとつである。この油絵は第二次大戦の戦災で失われた。(『丸の内今と昔』著作者冨山房(合)冨山房発行 昭和16年1月発行

  《武家地の解消へ向かう東京……詳細
明治初期の大名屋敷は、江戸在住の武士が帰国したため無人となり荒廃した。軍隊の官舎は、皇居前や日比谷公園、丸の内に集中した。
 

明治2年(1869)の版籍奉還により藩は県になり、藩主は県知事に任命された……
  佐伯藩 毛利家12代藩主 高謙(たかあき)は、幕末頃の藩主であり佐伯藩知事となる。愛宕下佐久間小路の佐伯藩上屋敷は、明治20年頃の地図でも12代高謙(たかあき)の名前である。おそらく知事に任命された時に、上屋敷(佐久間2丁目)の土地を下賜されたのであろう。12代高謙(たかあき)は明治9年(1876)に死亡しており、13代高範(たかのり)が明治17年(1884)に子爵となっており土地を受け継ぎ、明治20年から30年の間に売却などの動きがあったのだろう。
明治5年(1872)2月10日、通達により武家地に町名が付けられた……
 徳川時代初期頃、寛永・明暦の時代には、佐伯藩上屋敷は大名小路にあった。その後、佐伯藩上屋敷は愛宕下佐久間小路(江戸城大手門より2丁ばかり)である。 愛宕佐久間小路の佐伯藩上屋敷は、前に可能性を探った掛川藩(5万石)の中屋敷(1150坪)の隣で坪数も同じようである。幕府の意図が、譜代大名の隣に外様大名屋敷を配置して監視させたのであろうか。偶然と思うが面白い。

明治5年(1872)、和田倉門内の兵部省から出火した。この火事で皇居前・大名小路(丸の内)・銀座・築地など3000から5000戸が消失した。大名屋敷を兵舎としていた軍隊は焼け出され、江戸から続いた付近の大名屋敷は灰燼となった。
  明治5年(1872)2月26日の大火……皇居前・日比谷を焼き尽くす
  明治4年(1871)に東京府知事であった由利公正(ゆりきみまさ)が明治5年の火事について次のように 述べたという。(写真・由利公正 国立国会図書館所蔵)  

『 5年(明治)の二月二十一日であったと思うが、大火事(午後一時、和田倉門内旧会津藩邸跡より出火、町数四十一、長さ二十町余、幅平均四町程消失)があった。この時、私(由利公正)は風を引いておって、しかも十六日の休日で、木挽町の屋敷にいて、国元から持ってきた書類を仕分けするために、長持を側において、その片側に行李を寄せて、調べをしていた。そうすると一時頃に、呉服橋の方に当たって、にわかに火事が起こって、風も烈しかったが、火の足が恐ろしく早い、鐘の音も十分に聞こえぬうちに、木挽町の宅の窓から見ると、細い煙がきて、わが家も蒸すようであるから、これは油断ならぬと、表門の火見台に登ってみると、火は既に諸方に移って、大変大きくなっている。…中略…そこで、今度焼けた跡の家は、材木で建てても、煉瓦で建ててもよろしいわけであるが、どうか煉瓦建設にしたい、…中略…十五間ばかり許されて、煉瓦建設が出来たのである。今となってみると、もっと広げておけばよかったと思う。』(由利公正伝) 『芝・上野・銀座』鳶魚江戸文庫34 三田村鳶魚著 中央公論社刊 1999年

下の浮世絵は赤坂の仮皇居
明治6年5月に起きた火事で皇居一帯は焼失した。そのため赤坂にあった紀州藩邸を仮御所として天皇は移られた。西南戦争の戦費などで予算がなく、新宮殿(明治宮殿)の再建は明治21年(1888)10月の事でであった。

古今東京名所「赤坂仮御所」明治17年2月 歌川広重三代(馬込と大田区の歴史保存する会所蔵)
土産物の浮世絵か、寸法は230ミリ×175ミリである。
明治政府の大転換、 米から土地へ大転換……地租改正詳細
 
 
明治9年(1876)に大名屋敷を分割して民間に払い下げることが始まった。これは土地所有者から税金を取る仕組み「地租」の始まりである。金のなかった明治政府が、徳川幕府より無償で手に入れた武家地・町地を金に換える方法を考えついたのである。江戸時代、経済の元は米中心であった、その仕組みから転換して、土地所有者から税金を手に入れる様になった。これにより明治政府の財政基盤は、飛躍的に高まり安定化へと進んだ。この政策により都心の大名小路の整理・売却が順次始まった。


明治20年(1887)頃まで動きはなかったようだ
  同年、瀧の口の工兵隊が赤羽台(現・北区)へ移転した。これ以後も官舎を移転するする予定であったが、明治政府には移転・官舎建設費用150万円がなかった。そこで灰燼に帰した皇居前・丸の内・日比谷の陸軍用地を売却することにした。しかし、皇居前の重要な場所のため、反乱防止から皇居を守るため身元の確かな売却先を求めたが、なかなか売却先が出来なかった。


明治21年(1888)『府区改正条例』の始まり
  東京府が『府区改正条例』によって、丸の内は市街地とすることに決定した、このため新しい煉瓦造りの兵舎は赤坂・麻布方面に移ることなった。これらの地区には収公された大名家下屋敷・中屋敷が残されていた。明治20年(1887)以降、移転は少しづつ進んだが、資金不足に落ちた明治政府は丸の内軍用地を売却することにした。明治22年(1889)の入札でも必要とされる150万の資金は集まる見込みはない、売値が相場の10倍近いためである。


 明治23年(1890)3月、岩崎弥之助へ一括払い下げ
  最後に三菱の岩崎弥太郎が国のため一括して払い下げを受けた。半ば強制的であったようだ、丸の内10万坪150万円の金額であった。 (参照「江戸絵図が語る丸の内300年ー大名小路から丸の内へ」編集者・玉野惣次郎 (株)菱芸出版・発行 非売品)
 明治23年(1890)になり三菱の岩崎弥之助が購入した。しかし三菱も資金不足に陥り、明治5年(1872)から明治23年の18年間、この土地は野ざらしに近い状態であったと記録にある。 明治30年の地図でも三菱の購入した宮城の土地は建物が少ない。
「三菱ガ原」と呼ばれた丸の内
……(上記の写真参照)
  三菱の所有となった丸の内は一面の草原となり、およそ30年近く建物のない草原で、冬は吹きっさらしで人力車の車夫が酒を呑まずには行けないという、昔は「5合河岸」と言われたが、火事で焼け野原になり風が強くなった、そのため、7合は呑まないということから「7合川岸」と呼ばれた。明治27年(1894)に旧土佐藩邸の場所に旧都庁が建つ。(『縮刷 丸の内今と昔』三菱地所株式会社発行 非売品 昭和27年刊)

上記の流れから皇居前・丸の内あたりの軍施設が、残っている愛宕下などの大名屋敷に目を付け、軍部の官舎になった。同時に広い大名屋敷を細分化して民間に売却するなど変化が起きた。
次のページに続く
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