萩藩毛利家の支藩、周防國徳山藩の下屋敷門か。調査報告


大名屋敷門の謎を見たネットの方から、『先祖が徳山藩に関わりがあり、上屋敷が麻布今井谷、下屋敷が芝区白金猿町61番地にあったと聞いています。謎の大名屋敷門はどちらかの可能性はないでしょうか。』との問い合わせがあり調べてみた。


徳山藩について……
徳山藩は天保7年(1834)に3万石から4万石に改められ城主格となった。『青標紙』の5万石格の大名屋敷門に合致する。

最後の藩主 毛利元蕃(もうり もとみつ)は、元治元年(1816)7月の「禁門の変」により謹慎蟄居を命じられた。慶応3年(1867)に謹慎を解かれ、その後、幕府討伐軍に加わり鳥羽伏見の戦いで戦功をたてる。その功績により明治2年(1869)に8000石の賞典禄を受ける。同年、版籍奉還して徳山藩知事に任じられる。明治17年(1884)69才で没した。その子である元功は子爵を授けられた。


徳山藩下屋敷を確認する………
 『文献資料から見た愛宕下地区の屋敷拝領者・利用者の変遷』早稲田大学大学院 中西 崇 (『港区 愛宕下遺跡 T 第2分冊 ー港区No.149遺跡ー』)より

西久保桜川町南側地区に徳山藩下屋敷はあった。拡大表示
 
「明暦江戸大絵図」(1658年)には「毛利日向 下屋敷」とある、これは周防國徳山藩 初代藩主毛利就隆のことである。絵図にはこのように藩名でなく、官名で表記されるため間違いやすい。坪数は490坪、明暦の大火以後に屋敷を賜ったと考えられる。
 「寛文五枚図(新板江戸大絵図)」(1670年)では当地に「片ギリ三郎兵」と所有が替わっているので徳山藩下屋敷は別の所に移動している。指摘のあった芝区白金猿町61番地(現・高輪3丁目)かもしれない。

 ●右の地図は「御府内場末 往還・其外・沿革図書」から編成(弘化3年)東京都港区三田図書館 →


芝区白金猿町に徳山藩下屋敷を探す……
 芝区白金猿町は現在の高輪3丁目と白金台2丁目にあたる。昔は芝二本榎の南西、中原往還に面した両側の年貢町屋。南に徳山藩下屋敷があり品川台町があった。明治元年まで下屋敷はここにあったと思われる。


明治になると何が起こったか……拡大表示
白金地区あたりは明治初年(1868)の『大名家の屋敷はひとつだけと決まり、他は収公とする』との明治政府の布告により大きく変わった場所である。多くの大名は上屋敷を残し、中屋敷・下屋敷は放棄や売却されて屋敷は打ち壊された。白金は下屋敷が多かった地区であったため、広大な武家地一面が原っぱとなった。土地の境界を残すため、塀と屋敷門(長屋門)は残されたらしい。門の多くは壊されてかろうじて境界が判る状態だったらしい。
 
  明治2年(1869)の桑・茶畑政策により白金一体は桑・茶畑になり台町・猿町・三光町で4万坪あまりが畑になった。白金猿町は中原街道筋に開かれた町で隣は台町であった。 右の地図は明治20年(1887)の白金猿帳の様子が分かる。四角い61番の土地は徳山藩下屋敷があった場所である、しかし、明治2年(1869)の茶畑政策により周りは桑・茶の畑である。おそらく地図では更地61番地であると考える。 (参照『白金の歴史』森崎次郎 昭和58年刊 )


結論 上記の記述のように、白金にあったと思われる徳山藩下屋敷は明治初期に姿を消したと思われる。明治30年頃に移築された蓮光院大名屋敷門の可能性はないと考える。


徳山藩上屋敷はどこにあり、どうなったか。
 麻布今井谷は、市兵衛台と三河台、氷川台との間の低地で六本木から東に下り、溜池にいたる辺りをいう。現在の六本木にあたるが、この地に周防國徳山藩上屋敷はなかった、幕臣の屋敷であり近くに毛利長門守とあるが、探しているのは最後の藩主 毛利元蕃(もうり もとみつ)の上屋敷である。正式には毛利淡路守元番であり、天保8年(1837)22才で家督を継いでいる。下記の資料で上屋敷を発見した。


港区の資料『 東京都港区 近代沿革図集 赤坂・青山』東京都港区立三田図書館刊 昭和45年
 「御府内 往還・その他 沿革図書」文久2年(1862)赤坂3〜8丁目地図より


徳山藩上屋敷は町屋になった。
 赤坂8丁目(前赤坂新坂町)に周防國徳山藩上屋敷と抱屋敷があった。周りには越前丸岡藩、美濃郡上藩添屋敷、毛利岩国藩家老の抱屋敷などがある武家地である。右の地図参照
 
明治9年(1876)の『明治東京全図(東京市稿市街編付図)』によれば同地は61から63番の地番が振られている。周りも全て地番が付いた町屋になっている。

 明治18年(1885)『東京全図』内務省地理局地図によれば同地(新坂町)は草地のままである。
 明治29年(1896)『東京赤坂全図』東京郵便電信局地図によれば町屋として住宅があったようだ。その後の地図を見ると大正時代には61番には乃木公園、62番には乃木神社がある。後側は木戸邸であり、周防國徳山藩上屋敷は木戸邸となったようだ。今も残っているのは乃木神社・公園だけである。

結論
 上記の推移からも明治9年(1876)頃、武家地が町屋への変更により大名屋敷は取り壊されたと考える。残っていたかもしれない塀や屋敷門は跡形もなくなった。明治30年頃に蓮光院大名屋敷門の移築と考えると年代の幅があり、蓮光院大名屋敷門は周防國徳山藩上屋敷ではないと考えざるを得ない。