決定的な結論が出せない、謎の下丸子 蓮行院の大名屋敷門
謎のままの下丸子蓮光院大名屋敷門は、九州豊後佐伯藩の上屋敷門と断定する

    
  一番可能性が高いのが佐伯藩大名屋敷門である。直接の譲状がないことが惜しい。

  最初の文献資料「小字と伝説の数々」(目次)〈 中丸に残る舊(旧)大名表門 〉

河原邸門前の大名屋敷門

『馬込西二丁目(旧中丸)河原久輝氏表門がそれである。時代の変遷は格式的形式論を吹飛ばして明治31年河原氏が芝区毛利公家より故あって譲り受け、自邸の表門に改め農村地帯に異風景を呈するに至った。
  毛利家と言えば徳川時代における著名な大名で、その表門である以上構造の豪壮美は近代人の眼を驚かすに足る堂々たるものである。
 近来洋風建築に魅せられ、この種の建造物の取り除かれる傾向のある今日、地方豪農によって閑地へ保存さるることは、将来の考古学研究者への好資料保持者と請ひつべきであらふ』
(原文のまま)新版 大森風土記

   新版『大森風土記』杉原庄之助著 大森史跡研究会編・発行 昭和10年9月(1935)


この記述を素直に読み、芝区は白金ではなく、現在の新橋から虎ノ門であることに注目すれば、簡単に豊後佐伯藩に行き着いたのではないか。大名屋敷門の売買記録(明治31年頃)、河原家が大田区に寄贈した昭和14年(1939)の譲渡書類など、直接の資料があれば判明することが多い。今回、図書館で資料を探すことが出来たが、役所では古い記録を探すのは不可能であった。個人の資料要求に対応するシステムになっていない。文字による記録を、日本人はいつからおろそかにするようになったのか。佐伯藩の記録を保存する佐伯市の教育委員会も「売却の記録はない」との返事である。2012.2.08


明治30年(1897)頃、日清戦争が終わる。戦争処理では三国干渉により遼東半島は失ったが、台湾と賠償金を得る事が出来た。対外的な大きな戦争に勝利したことにより、軍部・政府にも大きな自信となり、滞っていた政策の推進が再開された。その一つに帝都東京の再開発がある。軍備拡張のために新たな財源が必要であった。明治31年(1898)地租改正令が出された。これにより市街地の税率は、5パーセント上昇、田畑は3.3パーセントの上昇となる。売却への引き金になったのか。
 
明治31年(1898)は、東京府から東京市に変わる記念の年であり高揚した年であった。芝区(東京南東部)も本格的な町屋開発が始まった。広大な大名屋敷は、明治初年から華族の私邸となり所有していたが、開発の機運により手放したか、地租が上がるため手放したか判らないが、佐伯藩上屋敷4000坪余りも町屋になった。大名屋敷門は開発のため取り壊される事になった、どのような経過か判らないが、 河原久輝氏が大名屋敷門を購入することになった。

現在、白金の明治学院あたりは、徳川家増上寺の寺領であり増上寺下屋敷があった。増上寺寺領馬込村の豪農であった河原久輝氏は、芝増上寺に出入りして御用をしていたと思える。
  増上寺の課役(御用)とは、他領に課せられる助郷・鷹狩人足・国役金等は免除される。そのかわり増上寺の御用人足、草刈り、宿坊の泊まり客への世話、馬の提供などである。これらの御用を河原久輝氏が受けていたとも考えられる。
その頃の増上寺馬込領の名主達は、馬込村の鎮守様・馬込八幡社に奉納された狛犬の台座に記載されている。  馬込の増上寺寺領は44村の中でも一番の大きさであり、寛永9年(1632)の記録では、二代将軍秀忠御霊料389石を治めている。明治元年にも同じ石高である。馬込の増上寺寺領は、現在の環状七号線を挟んで両側(南馬込)にあり、河原久輝氏の屋敷も西馬込中丸にある。(上の写真)


大名屋敷門取得の背景は……
 明治になり、江戸幕府庇護の増上寺は貸し付けていた債権を放棄され全てを失った。浄土宗大寺として運用するお金(祠堂金)がなくなり大変困窮した。増上寺の寺地を売るなどで寺の存続を計った。明治になり馬込村も増上寺の支配はなくなったが、繋がりはあったように思える。

 明治31年(1897)頃、資金の回収を続ける増上寺より、『大名屋敷門の購入を……』という紹介が河原久輝氏にあり大名屋敷門を購入したと考える。芝区から荏原郡馬込村まで、大きな移送ルートは中原街道と東海道しかない、どちらを選ぼうが最後は、細い道を引き上げる以外にない。大名屋敷門を解体・移築することは大変な費用が掛かり、生半可な決意では出来ない。義理ある増上寺の仲介であることから河原氏は決意したと考えている。
(私見)


Aー長府藩毛利家の可能性は、結論からするとほぼ無いと考える。
 
私は始めの頃、長府藩毛利家下屋敷門の説がいちばん高いと考えたが、調べるとこの屋敷は、明治初年頃まで佐倉藩堀田家の預かりであり、門は残ったと考えるが、周囲の開発の速度は速かったようで茶桑畑になった様である。特に街道沿いは町屋に成るのが早かった。
  明治20年(1887)頃の地図を見ると、大名屋敷跡は、桑畑・茶畑の育成に失敗の後、草地として放置されようだ。屋敷は壊されたが、長屋門と塀は土地境界確認のため、毀されず移築されなかった可能性がある。東京都に残る数多くの大名屋敷門は、門や塀などが残されている例が多い。
 なぜ大名屋敷門だけが残されたのか、門とそれに付随する塀は、大名屋敷の敷地を確定する重要な建築物だからである。江戸幕府からの拝領屋敷は、藩の所有物ではない、明治維新と共に明治政府の所有する土地となった。土地使用が決まるまで保存のため、取りあえず境界目印である塀と門は残された。(写真は壊された大名屋敷の塀)

『白金の歴史』(森崎次郎著 港区史跡の会刊 昭和58年)の記述
 『明治になって武家屋敷が取り払われた跡地の利用として、2年8月東京府知事大木喬任は太政官に桑茶政策を建言し、物産局が設けられて、桑や茶の植え付け希望者には地所を払い下げ、または付与して耕作の奨励をした。当初は東京市中に長屋門だけがあって、桑茶が植わっている所が各所にあった』とある。
 
明治20年(4887)以降の地図をみると、長府藩下屋敷土地には地番が振られており、土地売却の用意が完了していたと思われる。門など取り払われており、河原氏が購入する明治31年(1898)、土地に門はなく、すでに町並みが出来ていたと考える。
 

 地券(土地の売買記録)とは、土地売買の記録である。

『東京市及接続郡部 地積台帳』(明治45年・大正元年)を見ると、 長府藩毛利家下屋敷
土地の各購入者は、芝区白金三光町・466番地・所有者・住所日本橋小網町3-9(株)安田銀行、467番地・住所白金三光町425・所有者 私立聖心女子学院、468〜469番地・所有者・住所白金三光町473  成瀬正恭氏、470〜472番地・所有者・住所日本橋小網町3-9(株)安田銀行、473番地を購入したのは、住所白金三光町473番地 成瀬正恭氏である。(写真は地券の見本)
 
 隣の地番429は、元佐倉藩堀田家の下屋敷があった場所であり、現在も大学がある聖心女子学院が地番402から429ー1までの広大な土地所有者となっている。


参考『地籍台帳・地籍地図〔東京〕』全7巻 地図資料編纂会編 柏書房(株)刊 1989年 
国立国会図書館の地籍台帳・地籍地図


Bー 小島藩松平(瀧脇)家の可能性は……ほぼ無いと考える
 
  定紋から見ると掛川藩ではなく、小島藩松平家の定紋である。
小島藩上屋敷は明治元年頃の早い時期に変化した、憲兵隊の官舎が造られた。その後、水戸藩邸沿いの道路が延ばされた、その工事のため屋敷は毀されたのではないか、門はどうなったのか。後に水戸家屋敷跡は小石川後楽園となった、それと共に憲兵隊官舎もなくなり草地となった。
  小島藩上屋敷は『東京市及接続郡部 地積台帳』(明治45年・大正元年)を見ると4つに分割され個人が所有した。その後、柔道の嘉納治五郎氏が、明治27年(1894)に真砂町にあった陸軍省内の道場から移転、小石川区下富坂町の私有地を買い道場を設立「講道館」となり現在に至る


Cー掛川藩 太田家(摂津守・資功)の可能性……無い
 
  愛宕下の上屋敷は明治9年の地図でも、地番が振られて佐久間町2丁目13番地となっている。地券(土地の売買記録)の記録である『東京市及接続郡部 地積台帳』(明治45年・大正元年)を見ると所有者は村井眞雄氏とある。売買の年代ははっきりしないが、おそらく明治最初の所有者と考えられる。この時、大名屋敷門はあったのかどうか資料はない。また定紋は太田桔梗でなく、そのため掛川藩ではない。


結論として、蓮光院武家屋敷門は小島藩上屋敷富坂下の可能性も高いが、明治10年から20年の間に敷地は道路建設により約半分に分割された。この際、武家屋敷門は移築されたのであろうか、明治27年に柔道の講道館が設立されたとき、すでに門はなかったと考える。
  明治31年(1898)に河原久輝氏が購入するまで、武家屋敷門は何処にあったのか謎である。伝承から長府藩毛利家下屋敷門であると考えた方が無理がないようだが、定紋と瓦紋が江戸時代からあるものか、明治時代になり誰かに附けられたかの説明が付かないため断定は出来ない、謎が残る。(2012年)

ホームページを見た方から御教示を頂いた、大名屋敷門に詳しく長年研究されておられるアマチュアの研究家である。指摘がもっともであり、もう一度、初心に返って調べてみたい。  
新しい調査ページ
で詳細があり。
 明治初期の武家地処理問題について。 

2014年、大名屋敷門に家紋を付けられる条件があることが判明した。その条件に蓮光院大名屋敷門は該当しない、故に家紋は明治以降に付けられたと考える。(『江戸と江戸城』SD選書 鹿島出版研究所)


Dー大田区史の記述に、大名屋敷門を池田藩31万5000石ではないかとあるが、可能性は無いと言える。
 五反田池田山にある池田公爵邸(池田藩下屋敷)門を河原家の大名屋敷門としたようだ。この可能性は無い。大名屋敷門は、明治31年(1898)に河原氏によって購入され自宅の門とした。しかし池田山の池田公爵邸の取り壊しは大正10年(1921)からであり、池田山住宅地として整地を続け、下屋敷跡は高級住宅地と売り出された。最初に整地され、売り出しは昭和5年(1930) 頃であるようだ。 -
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