大正11年(1922)の地図(部分拡大)大名屋敷門はどこかあったか


大正11年(1922)馬込付近地図 部分(『大田区史(資料)民俗』大田区刊) 


大名屋敷門は、馬込中丸の台地にあった。
  明治31年(1898)、大名屋敷門を購入した河原氏は、馬込村中丸と言われる場所に住んでいた(番号・1)。
明治初年頃の馬込村は、堂寺(どうでら)、松原、北久保、久保、東、平張(ひらはら)、小宿(こじゃく)、中井、上台(うえだい)、塚越(つかこし)、中丸、根古屋(ねこや)、宮下、寺郷(てらごう)と呼ばれる字(あざ)があった。この字は谷(やと)と呼ばれ、同族によって構成される10軒から30軒による小集落である。
(番号・2)は南坂(この坂は江戸時代からあった)、
(番号・
3)は上池上・目黒道への道、番号・4は万福寺から塚越への道である。(『大田区史(資料編)加藤家文章1』より)
 
  江戸時代文政の頃(1818〜1829)、馬込の人口は約307軒ぐらいであったと『武蔵風土記稿』は記している。ほぼ、これくらいの人数で増上寺台徳院(2代将軍秀忠)の御霊料388石を納めていた。大変な負担であったろうと思う。(増上寺領参照)

 大正11年(1922)の地図(下地図)を見ると、コの字の塀で囲まれた家が見える、東側が入口らしく大きな家である。馬込村は武蔵野台地の外れであり、馬込九十久谷と呼ばれる土地で湧水が豊かであり、谷は堆積土で埋まり、柔らかく泥である湿田でドブッ田と呼ばれた。
 それは『ツミタ(摘田)と呼ぶ直播耕作(直まき)であった。田では大正末からの耕地整理によって畑地に換地されるまで田下駄が使用されたという』(ウィキドペア)田下駄は田植えの際に履く日本の伝統的な履物です。田下駄(千葉県立大利根分館展示品 千葉県香取市)GNU フリー ドキュメンテーション ライセンス(『大田区史(資料編)民俗』大田区刊)

馬込地区で耕地整理が早かったのは、大森に近かった谷中耕地である、「馬込第一整理組合」は設立が大正12年(1928)、耕地整理が完了したのが昭和4年4月(1929)。その後、「馬込第二整理組合」設立昭和4月、「馬込第三整理組合」設立昭和6年(1931)が作られたが、完了の日時は不明である。昭和3年(1928)の地図を見ても耕地整理には未着手であり、馬込西部の中丸・塚越・宮ノ下では変わりない草地である。(『大田区史(資料編)民俗』大田区刊)


現在の中丸付近、マンションの後ろがわにある。右端に地図番号4の道がある。
馬込坂下より見た池上方向、中学校辺りから緩い下り坂になり池上本門寺裏入口。

大正11年(1922)の地図を確認すると、中丸のコの字で囲まれた部分がはっきりと分かる。ここが塀に囲まれた河原邸だと考えられる。右側に大名屋敷門があったと考えられる。右の台地端部分に第二国道が造られた。地図下部分は池上方向。   
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