明治20年(1887)の馬込地区、荒地と丘の風景
     
馬込坂の建設、緑色が第二京浜国道予定ラインである。国道の予定では、中延から馬込坂上辺りまで道があり、拡張で対応出来た。また、池上本門寺裏までも川崎から拡張できる道があった。問題は両方を繋ぐ道が無いことである。そこで大胆に地図上で直線を引いて工事を始めた。馬込坂上の海抜は、23メートル、下の西馬込付近は10メートル、直線最後の本門寺裏は、8メートルである。この標高差を斜面けづり、ほぼ直線(約2300メートル)の坂で結んだ。(写真参照)

馬込坂上から西馬込までは、谷に沿った台地斜面を斜めに削り下坂を造った。左側は谷の荒地が広がる、下の西馬込も約10メートルの台地を削り切通とした。 
  全て人力で削り取った土砂をトロッコで運ぶなど困難な作業である。南口は現在平らになっているが、切通がある小山(台地)があった、都営地下鉄工事で台地を削り平地として駅舎を造った。
  西馬込駅は、大谷と呼ばれる谷にあり、馬込九十久谷に特有な軟弱な地盤である。中丸と呼ばれた台地を削り道路を造った時、大地にあった河原氏の自宅も第二京浜国道が貫通したため、国に協力して土地を売却した、この時に大名屋敷門は大田区へ寄贈された。昭和14年(1939)の事である。第二京浜国道の完成は、多摩川の架橋(木造橋)と馬込坂の難工事が終わり、昭和20年(1945)に完成を見たと言われる。しかし、戦争で木造橋は消失、戦後、昭和22年(1947)、鋼鉄橋に着工、24年(1949)に完成。