番外編 江戸時代後半、浮世絵に描かれた大名屋敷江戸の風景

「江戸勝景 芝新銭座之図」絵・歌川広重 版元・川口正蔵 天保6年から9年(1832〜1838)。絵に描かれた大名屋敷は、会津若松23万石の会津藩中屋敷である。( 国立国会図書館デジタル化資料)
陸奥会津藩 松平肥後守容保の中屋敷、29.492坪。道の反対側は芝新銭町という町屋である。現在の東新橋2丁目から浜離宮までの広大な中屋敷である。国持ち大名の特有の大名屋敷門である。

歌川広重の「江都勝景ー芝新銭座之図」である。この江都勝景は江戸市中の大部を占めた大名屋敷を描いたシリーズである。当初は10枚の予定であったらしいが、上の絵以外に「江都勝景 日比谷外之図」萩藩(長州藩)三十六万九千石の毛利家上屋敷、「江都勝景 山下御門之内」肥前国佐賀三十五万の石鍋島家上屋敷などが知られている。江戸城側の大名小路や愛宕下の大名小路は、将軍家お膝元の江戸っ子自慢で、江戸にしかない風景である。浮世絵には、江戸市中を歩く旗本や大名行列を描いたものが多数あり、参勤交代で帰国する勤番侍のお土産として人気があったようだ。豪壮な大名屋敷が建ち並ぶ江戸は、地方の人達の憧れの都(みやこ)であった。

上の絵は陸奥国若松の会津藩二十三万石松平肥後守の松平家(保科家)中屋敷を描いたものである。7代松平容衆(かたたか)治世の頃である。場所は、寛永13年(1636)に銭貨を鋳造する場所があったことから付いた町屋の町名である。会津藩中屋敷の南に位置する。現在の汐留付近から浜離宮までの辺りである。
 絵には国持ち大名の 両側に番所を持つ大名屋敷門が描かれている。また、この門は初期の門が消失した後の姿を伝えている。(参考「青標紙」) 門に繋がるのは大名屋敷の二階建て長屋である。道には一本槍掲げる武士(旗本)が歩いてくる。右は町屋なので傘屋らしき風景が見える。左に歩くのは芸人の三人か。


「江戸勝景 虎ノ門外之図」絵・歌川広重 版元・川口正蔵 天保6年から9年(1832〜1838)。ボストン美術館蔵  

絵に描かれた大名屋敷は、日向国延岡藩内藤家7万石上屋敷である。1万550坪の広大な屋敷である。現在の住所では、千代田区霞が関三丁目、文部科学省あたりである。

御堀に面している大名屋敷は、日向国延岡藩(宮崎)内藤家7万石、内藤能登守政義の上屋敷である。国持大名の上屋敷らしく表長屋は、海鼠壁(なまこかべ)、連子窓の二階建てである。見える門は、表御門で両番所を備えた7万石の格式を誇っている。絵の御堀(幅38メートルほど)は埋められて、現在は「内堀通り」となり、広い道路となっている。

屋敷の裏側に当たる場所に「三年坂」と呼ばれる坂があったことから、延岡藩士たちは、この屋敷を「三年坂の邸」と呼んだ。現在の財務省と文部科学省の間の坂道。また、他にも三年坂がある、港区麻布台の三年坂、この坂で転ぶと三年以内に死ぬと言う俗説がある。また京都の清水坂も三年坂と言われる。
 
明治になり、上知令により江戸城郭内の全ての大名屋敷は収公(取り上げられる)され、軍事施設となった。明治5年(1872)4月3日に、和田蔵門内旧会津邸兵部省添屋敷から出火した、強風により大火になり現在の丸の内、銀座、築地あたりまで延焼した。この火事で明治政府の官庁が数多く焼けた。明治政府は官庁の移転を決めたが、移転費用がない、そこで丸の内一帯を売却することにした。しかし入札金額があまりに高く、入札する人間がいない。困った政府は、岩崎弥太郎に強引に買い取らせた、渋々買い取った岩崎弥太郎だが資金が底をつき、開発が出来なかった。10年近く原っぱのままであり、『三菱ガ原』などと呼ばれた強風が吹き渡る原っぱであった。延岡藩内藤家の上屋敷も火事で焼失したであろう。また、この屋敷は泥絵にも描かれており、それを見ると左側には溜池があったようだ。


「東都名所 芝赤羽根 増上寺」絵・歌川広重 詳細は明らかでない。ボストン美術館蔵

絵の右側に見える火の見櫓は何だろう。武家地には火の見櫓(9メートルほど)の建設が認められていた。有馬屋敷には絵のような小高い丘があったのかも知れない。有馬家は大名火消しを命じられていたか。


上の絵の大名屋敷は、筑後久留米藩(福岡)上屋敷 24.925坪 有馬中務大輔頼成(二十一万石)で、川は新堀川である。川に掛かる橋、手前は「中之橋」、奥の橋が「赤羽橋(赤羽根橋)」である。おそらく左側に見える森が増上寺であろう。大名屋敷内に翻る幟は何か、不思議で調べてみると、全国水天宮の総本宮は久留米市にあった。だが10代藩主有馬中務大輔頼徳は、参勤交代で水天宮にお参りできないことから、久留米の本宮から芝赤羽の上屋敷に分霊して祭りました。江戸っ子は水天宮の名から水難、安産に御利益があると噂になり、魚河岸からも参拝した。屋敷の塀越しに賽銭を投げ込んで手を合わせます。あまりの人気に有馬家では、5日の縁日に「御門開きの日」と決め、廷内にお参りすることを許しました。江戸時代を通して賑わったそうです。
 明治5年(1872)になり、水天宮は有馬家下屋敷があった。日本橋蛎殻町に移り「御門開きの日」も1日、5日、15日と3日間に増やして賑わいました。戦後は毎日、御門を開けていつでも参拝できます。また、元の久留米藩上屋敷跡には、都立三田高校が建っています。


「江戸名所 霞ヶ関之景」絵・歌川広重 版元不明 天保11年から嘉永2年(1840〜1849)、
ボストン美術館蔵


絵の中央に見える坂が霞ヶ関の坂だとすると、右の大名屋敷は、安芸広島藩 松平安芸守斉粛(浅野)四十二万石の上屋敷13.681坪。左の大名屋敷は、筑前福岡藩 松平美濃守斉粛 五十二万石の上屋敷21.160坪。

「古今東京名所 赤坂紀尾井坂」歌川広重三代 「馬込と大田区の歴史を保存する会」所蔵


江戸時代には「清水坂」とよばれていた、わずか200メートル程の坂である。ここには大名の江戸藩邸が多くあり、清水坂の南側に紀州徳川家(現在は清水谷公園やプリンスホテル赤坂)、北側には尾張徳川家(現在は上智大学)、彦根藩井伊家(現在はホテルニューオータニ)の屋敷が角を接していた。三家があった坂道であるところから、御三家の紀伊徳川家の「紀」と尾張徳川家の「尾」、譜代大名井伊家の「井」のそれぞれ一字ずつを取って「紀尾井坂」とよぶようになった。 また、この坂は内務卿大久保利通が暗殺された所でもある、彼は明治11年(1878)旧加賀藩の不平分子により刺殺された。西南戦争後の世上が騒然としており、大久保には暗殺される恐れがあったのに護衛はわずかであった。

歌川広重の描く正月風景
歌川広重 おそらく霞ヶ関の正月風景。
詳細不明 ボストン美術館蔵

江戸の正月……
 江戸の正月は、男子の遊びはたこ揚げ、女子は羽根付きが一般的である。絵になりやすいたこ揚げは浮世絵に数多く登場する。子供の遊び、凧の色々 子供の遊び 双六遊び     江戸の本屋(草紙屋)鶴屋まえで凧を揚げる


正月を祝う芸人たち、上記のどちらの浮世絵にも正月特有の芸人が描かれている。『守貞漫稿』国立国会図書館デジタル化資料
「江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町」絵・歌川広重 版元・辻文 辻岡屋文助 天保14年から弘化4年頃 国立国会図書館デジタル化資料
現在の東大赤門か、門を赤く塗るのは、将軍家から姫(嫁)を迎えたことを示す。

「熊本藩細川越中守 白金の中屋敷」撮影・F・ベアド、現在の高輪西台町1番地、清正公と道を挟んだ品川方面の台地。明治には高輪御所、その後、東宮御所である54万石の大大名細川家の中屋敷らしく、二階建ての表長屋が続く広大な大名中屋敷である。門は藩士が出入りする通用門であろう。

「薩摩藩高輪邸表長屋」撮影・F・ベアド、明治初期の写真である。高輪には東禅寺(イギリス公使館)があり、薩摩藩下屋敷の近くであった。


F・ベアドについて……イタリア文化省より
 Felix Beato(フェリーチェ・ベアド)1832年ヴェネツィア生まれ、1909年フィレンツェで死亡、イタリア人。従来はイギリス人と表記されるが、イタリア文化省よりメールによる指摘が有り、植民地時代のイタリア人であると訂正した。植民地のため出生届がイギリスになりイギリス人と思われていた。彼は兄弟で、兄アントニオと同じF・ベアドとサインしたため、どちらが撮影したかはっきりしない。記録には撮影地・日時がある。
 
  1863年頃に来日して多くの写真を撮る、幕末から明治にかけての貴重な写真となる。特に有名なのは、愛宕山から大名小路を見た写真である。明治維新後、江戸の70パーセントを占めた大名屋敷が消え、現在では、わずかな大名屋敷門しか残されていない。上記の写真のように 大名屋敷を撮影したものは貴重である。

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「名所江戸百景 愛宕下藪小路」絵・歌川広重 版元・魚栄 安政4年(1857)
国立国会図書館デジタル化資料
愛宕下藪小路は御堀の側、桜川水路のある小路である。『復元 江戸情報地図』(朝日新聞)を見ると愛宕から流れる水路である。浮世絵に藪小路とあるが、三斉小路かも知れない、この辺りは小大名が多く、豊後日出藩(大分)2万5千石、近江水口藩(滋賀)2万5千石などや幕臣の屋敷があるが、左の屋敷は伊勢の国菰藩である。

『藪小路は、愛宕山の北側、現在の虎ノ門一丁目にあり、名所絵に描かれるほど知られる場所でした。地名の由来となった竹藪画中の川は櫻川で、愛宕山の石段へ続きます。この川も、地名になった竹藪も現在は見ることはできません。』(『愛宕山ー江戸から東京へー』港区郷土資料館 平成23年刊)

「名所江戸百景 愛宕下藪小路」絵・歌川広重 版元・魚栄 安政4年(1857)国立国会図書館デジタル化資料

『帝国大学 赤門』絵葉書 写真「東京の名所」写真帳 第2巻 葛西虎次郎臨写 青雲堂出版部 大正2年(1913.2)都立中央図書館所蔵資料
 葉書の説明には、『赤門は、前田家屋敷の表門で、東京帝国大学の象徴的存在になりました』とある、明治末頃の撮影であろう。 モノクロ写真に人工着色か。

ー『東京人』創刊号 1986年刊ー

『東京人 江戸復元図』 1990年10月号・付録
 文久2年(1862)の江戸町を再現した地図である。地図の大きさは、縦870ミリ、横990ミリ。現在の東京都に合わせて武家地、寺社地、町屋が色分けされている。武家地(黄色)が70パーセントほど、寺社地(紫色)が15パーセント、町屋(灰色)が15パーセントほどである。江戸時代の人口は、武士が50パーセント、その他50パーセントである。わずか15パーセントの土地に50万人が住んでいた。幕末には武士が居なくなり、70パーセントの土地が空き屋になったのだ。すさまじい荒廃であったろう。

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