大師電気鉄道、後の京急電気鉄道(明治32年)
写真
写真は六郷橋と川崎大師の間を結ぶ路面電車(大師電気鉄道)が、桜並木を走っているところ。川崎宿辺りから川崎大師を結ぶ、わずか2キロの路面鉄道である。(京浜急行電鉄 写真使用許可済み)

電車の開通は、明治32年(1899)のことである。
 
『京浜電車が六郷橋と川崎大師の間に初めて電車を運転したのは 明治32年(1899年)1月21日、車両はわずか5両、2km の単線を行ったり来たりで、大師電気鉄道という名前でした。』「京浜急行今昔物語」元 鉄道友の会理事 吉村 光夫 氏(平成8年7月28日)より
料金は、並等5銭、上等10銭で、当時の物価からは見ると高かった。遊覧電車的な色合いが強かった。明治32年(1899)「大師電気鉄道」は、「京浜電気鉄道」と社名を変えた。


電車の速度は時速13キロメートルであった。この路面電車は、川崎大師に参拝客を運ぶのが目的であった。当時の輸送手段である人力車や乗合馬車との競合に反対も多かったという。そのため、人力車への連絡切符も用意された。順調なスタートであった。官営鉄道が広軌になると言う話があり、レール幅も1,435ミリとしてスタートした。(参考 『京浜急行九十年史 京浜急行電鉄発行』社史)


〈川崎大師の参拝者を当て込んだわずか2キロの路面電車 大師電気鉄道〉

『江戸名所図会』(斎藤長秋・莞斎・月岑編、長谷川雪旦画、前半1−3巻10冊は天保5年・1834・刊)巻2「大師河原大師堂」

江戸時代の平間寺
ハリスとヒュースケンが万年屋で迎えた1857年11月29日(安政4年10月13日)は、キリストの降誕を待ち望む降臨節の第一日曜日であった。彼らは安息日に平間寺を参拝する事にしていた。日本人から重要な大寺と聞いていたからである。
川崎大師は、厄除大師として江戸時代を通じて関東人の信仰を集めた。江戸後期には、11代将軍家斉の寛政8年(1796)から生涯4度の参詣、また、12代将軍家慶も文政元年(1818)から4度の参詣などもあって門前の発展とともに一般庶民の参詣も隆盛を極めた。

上の絵葉書はイタリアの写真家フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)の写真であると思われる。彼はイギリス人と表記されるが、イタリアがイギリスに占領されていたときに生まれたため、イギリス人と言われるがイタリア人である。


浮世絵は三代広重の平間寺参拝の様子である。江戸から船で羽田の渡しに着き、歩きや籠で向かった。
明治になると、鉄道の建設が大きな変化を生んだ。明治の廃仏毀釈を経て川崎大師となったが、参拝者は益々増えていった。明治5年の鉄道開通は参拝者に便利に成り、川崎停車場で下車して、一輪車や徒歩で川崎大師に向かった。この変化に目を付け、鉄道建設を思いついたのが大師電気鉄道の立川勇次郎らでした。同じように考えた、横浜電気鉄道が競争相手となりましたが、両者は合同で大師電気鉄道を設立いたしました。明治31年2月(1898)のことでした。

明治9年(1897)に大森駅開設、明治10年(1877)11月に六郷鉄橋が完成して複線化が進められた。複線化20年近くで参拝者の増加が大師電気鉄道を造らせた。


大師電気鉄道の建設

  「京浜急行 今昔物語」吉村光夫著(株)多摩川新聞社発行 1995年

大師電気鉄道はわずか2キロ・4駅の鉄道である。線路は川崎大師が造った大師新道(参詣道)を幅10メートル拡張して併設する事で決まったが、起点を川崎駅にしたかったが人力車の車夫組合の反対により、川崎宿の六郷渡しとなった。また桜を植えて参拝者の目を和ませました。使用する電車は2軸電車で長さは7.2メートルの小ささである。明治32年(1899)1月21日大師さまの御縁日に開業した時には、わずか電動車3両、付随車2両の5両で始まった。


  下は乗客の増加により造られたボギー電車

大師電気鉄道は、自前の発電所も建設した、場所は久根崎辺りである、アメリカよりスキンナー社のボイラーと蒸気機関、また発電機も買い込みました。発電の出力は75キロというささやかなものであった。また、大師電気鉄道の職員は事務4人、運転部8人、機械部4人、線路部1人の17名である。開業後も順調で1日平均1000人を越えた、直ぐに複線化の必要が起こり、明治32年4月24日の株主総会で決定され、工事を開始する。同年11月29にちより複線運転を開始する。また社名も京浜電気と改称した。(写真は「京浜急行100年史」所蔵)