鎌倉街道の上道・中道・下道には諸説あり、代表的な説を紹介する


古代の街道
  下の地図は、「国土交通省のホームページ」記載の古代の街道である。京都から遠く、俘囚の豪族が支配する出羽や陸奥(奥州)に対峙する東国は、地図で分かるように街道は少なく、鎌倉幕府が開府されるまで、あまり発展していなかったことが分かる。この地図で下道は記載されていない。詳細を見る 

下ノ道」の利用…六郷用水の開削(江戸時代)  


下ノ道は、武蔵野(大田区)の発展に大きく寄与したと考える。江戸を開府した徳川家康は、地方功者じがたこうしゃと言われる農政技術者を使い土木工事をさせていた。その一人、小泉次大夫が六郷用水掘削を完成させた。徳川家康は鎌倉幕府の公式歴史書「吾妻鏡」を愛読していた、我々が想像する以上に武蔵野国について実情を把握していたのではないか。家康は関東に入府する前に、六郷用水構想を持っていたと言われる。灌漑すれば農地が増え、米が獲れる可能性があり国力が増す。
下ノ道は別ページに詳細  北原庄一氏の「下ノ道」 実地踏査を紹介。

  その根拠となるのは、鎌倉時代からの道(下ノ道)があることを知り、六郷用水掘削に作業用の道として利用できることを確信していた。六郷用水は「下ノ道」沿いに開削された。下ノ道がなければ、六郷用水掘削は不可能であった。(私見)

1.「上ノ道」は化粧坂(神奈川県鎌倉市)ー州崎(同)ー渡内(藤沢市)ー柄沢(同)ー飯田(横浜市)ー瀬谷(同)ー鶴間(東京都町田市)ー 木曽(同)ー小野路(同)ー関戸(多摩市)ー分倍(府中市)ー恋ヶ淵(国分寺市)ー野口(東村山市)ー堀兼(埼玉狭山市)ー菅谷(比企郡嵐山町)ー鉢形(大里郡寄合町)ー雉ヶ岡(児玉郡児玉町)から上野・下野・信濃方面に通した。

2.
「中ノ道」は、山之内(神奈川県鎌倉市)−小袋谷(同)−大船(同)ー笠間(横浜市)ー永谷(同)ー柏尾(同)ー秋葉(同)ー名瀬(同)ー二俣川(同)ー鶴ヶ峰(同)ー白根(同)ー中山(同)ー荏田(同)ー是政(東京都府中市)ー府中でここで上ノ道と合流した。(注)この先久米川あたりから高野渡あたりに繋がり古河へ、これが「中ノ道」であったようだ。

3.
「下ノ道」は、中ノ道の永谷から分かれて、最戸(横浜市)ー弘明寺(同)ー井戸ヶ谷(同)ー岩井(同)ー帷子(同)ー神大寺(同)ー片倉(同)ー新羽(同)ー日吉(同)ー丸子(同)ー池上(東京都大田区)−新井宿(同)ー芝(港区)ー忍岡(台東区)で奥州と房総方面に分かれた。(注)初期の「下ノ道」である。 拡大表示
『国史大辞典 第三巻』国史大辞典編集委員会編 (株)吉川弘文館 平成6年9月1日

『武蔵武士の分布』と街道
1. 「上道」は武蔵野国を南北に貫通するするので「武蔵道」とも言われ、上野國を経て越後国や信濃国に通じていた。この道は、小手指原、笛吹峠、須賀谷原などの古戦場が連なる。

2.「中道」は「奥大道」と言われる北武蔵の東部をほぼ南北に貫通する奥州につながる重要な道である。頼朝が奥州討伐に向かった道と思われる。この道は大河を渡る渡しがある。岩淵(東京都北区)、御厩瀬(埼玉市)、高野(杉戸町)、古河(北川辺町)である。

3.「下道」は、中道の途中の水谷、または山之内から分かれ、最戸、弘明寺、岩井、帷子、日吉、丸子、池上、新井宿、芝、隅田川で奥州海道や千葉に分かれる。他の地図と同じようなルートであろう。
『武蔵武士と戦乱の時代 中世の北武蔵』田代 脩著 (株)さきたま出版会 2009年   拡大表示

『武蔵武士団』
「上道のルート」 武蔵野国の府中を通過する最も重要な街道である。この道の最古の資料は、下野国御家人宇都宮(塩谷)朝業(ともなり)の出家後の日記『信生法師日記』である、嘉禄元年(1225)。
鎌倉後期の謡曲『婉曲抄』に記載があるルート。由比のの浜(鎌倉市)ー常磐山(同)ー村岡(藤沢市)ー柄沢(同)ー飯田(横浜市戸塚区)ー井出の沢ー小山田の里(同小野路町)ー霞の関(多摩市関戸)−恋ヶ淵(国分寺東・西恋ヶ淵)ー中略ー武蔵野(所沢市付近)ー入間川渡河展点ー荒川渡河点ー見馴川(現・小山川)ー上野国へ

「中道のルート」 鎌倉から武蔵野国東部や下野國を経て奥州に向かう。

「下道のルート」 鎌倉から江戸湾岸を北上して墨田の渡しを越え、青戸・松戸から下総国、常陸の国への「下総道」である。『 武蔵武士団』関幸彦著 吉川弘文館 2014年  拡大表示

下ノ道から奥州街道の分岐点ー両国
 
  六郷川河口付近の六郷神社で兵を集めた源頼義・義家軍は海岸沿いの道を進んだ。途中で参加する武士達を吸収しながら、今の台東区鳥越2丁目の「鳥越神社」付近で川(隅田川)の渡河に困っていると、水鳥が浅瀬を渡っているのを見て渡河できたと言われる。戦いののち、この辺りを「鳥越の里」と呼び、白鳥大明神の加護で渡河できたと感謝して鳥越神社と社号を奉じた。(鳥越神社由緒より)

地図は江戸期の下町を描いている。鎌倉幕府で成立した「 下ノ道」は、このあたりから隅田川沿いの奥州・日光街道になる。ここは海岸沿いの土地であり、標高2〜4メートルほどしかない低地であった。
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 (台東区ホームページより)


下ノ道には,二通りのルートがあった。
 
  一つは、鎌倉幕府開府以前から下道はあった。二つ目は、仁治2年4月5日(1241年5月17日)、第三代執政北条泰時が、朝比奈切通から金沢の海岸線に出る海岸沿いの「下ノ道」を整備した。金沢までの道は「金沢道」と言われ、六浦(むつら・武蔵国久良岐郡)の港から物資を運ぶ道であった、別名「塩街道」とも言われ江戸時代にかけて使われた。地図を見る (注)朝夷奈切通(あさいな きりとうし)とも言われる
。(写真は金沢八景の瀬戸神社)

鎌倉街道について……
 鎌倉街道という言い方は鎌倉時代にはなかった。江戸時代に鎌倉時代の古道という意味で使われたらしい。また鎌倉へ向かう道という意味で広く使われ、日本各地に鎌倉街道がある。柳田国男もあまりの多さに呆れて調べることを断念したと云われる。東北地方に鎌倉街道が多いことは、次のことが原因と思われる。
 1.奥州合戦に勝利した源頼朝が御家人に東北の土地を分け与えた。御家人が鎌倉街道と広めた。
 2.源頼朝は源頼義・義家親子を武士の棟梁と神格化した、東北には驚くほど源氏の伝承がある。

「いざ鎌倉」と言う言葉は、もともと謡曲
「鉢の木」から生まれた言葉であり。北条時頼伝説が元になっている。伝説の中で旅の僧が「鎌倉におん大事出で来たるならば、千切れたりともその具足とって投げ掛け、錆びたりともその薙刀を持ち痩せたりともあの馬に乗り、一番に馳せ参ずべき」から使われている。鎌倉幕府と御家人との絆を表す言葉として使われている。
 


『武蔵路は上ノ道と同一と思われる。上ノ道は、鎌倉の化粧坂(けわいさか)から常盤、藤沢の東の村岡、俣野、小野路、関戸を経て武蔵府中に至る。下ノ道は、北鎌倉の山之内から弘明寺、保土ケ谷を経て鶴見へ至る。中ノ道は、下ノ道から分かれて、戸塚、二俣川、鶴ヶ峰、長津田を経て、町田付近で上ノ道に合流するものと推定されている。これらの三線は、武蔵方面へ伸びる鎌倉周辺における主要幹線であるが、そのほかの各地へ伸びる路線の存在が知られている。すなわち、上ノ道の延長として入間、上野を経て信濃善光寺方面へ至る信濃街道、下ノ道の延長線として水戸もしくは宇都宮を経て奥州へ至る奥州街道、鎌倉由比ヶ浜づたいに片瀬へ出て藤沢から西へ京都方面へ向かう東海道筋、足柄峠から御飯峠、三国峠を越え甲斐に至る東山道筋などである。』(『歴史考古大辞典』小野正敏・佐藤 信・館野和己・田辺雅夫編 (株)吉川弘文館 2007年3月20日)

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