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●『武蔵武士の分布』と街道 1. 「上道」は武蔵野国を南北に貫通するするので「武蔵道」とも言われ、上野國を経て越後国や信濃国に通じていた。この道は、小手指原、笛吹峠、須賀谷原などの古戦場が連なる。 2.「中道」は「奥大道」と言われる北武蔵の東部をほぼ南北に貫通する奥州につながる重要な道である。頼朝が奥州討伐に向かった道と思われる。この道は大河を渡る渡しがある。岩淵(東京都北区)、御厩瀬(埼玉市)、高野(杉戸町)、古河(北川辺町)である。 3.「下道」は、中道の途中の水谷、または山之内から分かれ、最戸、弘明寺、岩井、帷子、日吉、丸子、池上、新井宿、芝、隅田川で奥州海道や千葉に分かれる。他の地図と同じようなルートであろう。 ●『武蔵武士と戦乱の時代 中世の北武蔵』田代 脩著 (株)さきたま出版会 2009年 拡大表示 |
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●『武蔵武士団』 |
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●下ノ道から奥州街道の分岐点ー両国 六郷川河口付近の六郷神社で兵を集めた源頼義・義家軍は海岸沿いの道を進んだ。途中で参加する武士達を吸収しながら、今の台東区鳥越2丁目の「鳥越神社」付近で川(隅田川)の渡河に困っていると、水鳥が浅瀬を渡っているのを見て渡河できたと言われる。戦いののち、この辺りを「鳥越の里」と呼び、白鳥大明神の加護で渡河できたと感謝して鳥越神社と社号を奉じた。(鳥越神社由緒より) ●地図は江戸期の下町を描いている。鎌倉幕府で成立した「 下ノ道」は、このあたりから隅田川沿いの奥州・日光街道になる。ここは海岸沿いの土地であり、標高2〜4メートルほどしかない低地であった。 地図拡大 (台東区ホームページより) |
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●下ノ道には,二通りのルートがあった。 |
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●鎌倉街道について…… |
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