江戸時代以前の東海道(古東海道)は何処にあったか

「国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所」のホームページより転載


大田区史の「平間街道は古東海道である」は誤解される記述である。
  鎌倉幕府の開府で京都と鎌倉の往還が盛んになり古東海道は非常な発達をした。鎌倉時代の東海道は六十三次であった、これは東海道が美濃道て迂回しているため長距離になったのである。ここで誤解されやすいのが、「旧東海道」と言った場合は、江戸時代の東海道を意味しており、「古東海道」とは江戸時代以前の東海道を示すことである。(参照・『『東海道』八幡義生(やわたよしお)著 有蜂書店新社発行 昭和62年刊)
 
  大田区史の平間街道が古東海道であるという記述は、文治五年七月十七日の『吾妻鏡』記述、「奥州追討軍の部署を定める」による。この文章の「いわゆる東海道〜」とは下道(下ノ道)であり、「下道を經〜」は上道である、また源頼朝が行軍した中路は中道である。鎌倉時代になり、上道・中道・下道の名称が定まった。道名称の間違いは『吾妻鏡』が鎌倉中期頃に編纂されたためらしい。

 
古代からの古東海道は何処にあったか調べてみると……

延喜式では、坂本駅ー浜田駅ー店屋駅ー小高駅ー大井駅の駅となり(地図の緑色ルート・品川区の大井と推定されている)。

奈良時代には、中原街道を使い、多摩川を「丸子の渡し」を渡り、荏原・中延・大井に致る可能性も考えられる。

どちらの道を取るにしても、江戸時代に造られた海岸線の東海道とは離れており、大田区史が言う「平間街道は古東海道」であるというのは混乱する規定である。平間街道は、鎌倉時代に制定された奥州に向かう三本の道(上ノ道、中ノ道、下ノ道)の一つ、下道(下ノ道)の一部である。より詳しく言うならば、「平間の渡し」を渡り品川区の大井あたりまでを呼称したと考えられる。
 
  江戸時代に現在の東海道が完成すると、平間街道は東海道と中原街道を結ぶ往還路として利用され、鎌倉街道の「下ノ道」という重要な街道であったと言うことは忘れさられ、その後「平間街道」という名前も人々から忘れさられた。
  また、奈良時代の道(紫色)はおそらく多摩川を「丸子渡し」をわたり、中原街道から大山道(目黒・麻布)を経て江戸に入ったようだ。この道は鎌倉からの「中ノ道」であろう。また、「下ノ道」と「中ノ道」が保土ケ谷辺りで一緒になり、多摩川の渡し前で分岐して「丸子の渡し」と「平間の渡し」に分かれるというと言う説もある。 (2016.05.16 更新)


古代の東海道の推定駅路ー
  小高から「丸子渡し」で多摩川を渡河する、中道(中原街道)を進み大井から海岸線を進み、豊島(鳥越神社付近)から隅田川を渡河する地点、井上(いかみ)である。
(図・『図説千葉県の歴史』三浦茂一編 河出書房新社 1986年)

上記のルートは、「前九年の役」で奥州に向かう源頼義・義家親子が六郷河口に立ち寄り、兵を集め常陸の国に向かった道ではないか。
  平安時代に河内源氏祖先が、常陸国の桓武平氏である多気大掾氏と共に平忠常の反乱を平定したことから源氏の家人となった。多気大掾氏に連絡をするため、六郷河口に住む多気大掾氏一族に逢った。舟を使った連絡である。多気氏は多摩川上流にあった荘園の荷を舟で運ぶ仕事をしていたと考える。六郷の行方氏(私見)

 
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