桓武平氏の多気大掾氏一族は
武蔵国六郷の地で源義家に従い「前九年・後三年の役」を戦う

武家政権樹立の第一歩は六郷河口(現・大田区六郷)より始まる。奥州に向かう源頼義・義家親子を六郷で迎えた武将は、桓武平氏の多気大掾氏一族の誰かであろうと考えるが、資料はなく確定できない謎である。

平安時代末期の武蔵野国六郷の様子
平安末期頃、朝廷から追討の綸旨を受けた源氏(軍事貴族)は私兵(家人)を率い、東国各地で兵を集め奥州追討に向った。この時、源頼義・義家親子が率いた兵力は多く見積もっても3000人ほどであったと言われる。
天喜五年(1052)、河内源氏の源頼義・義家親子は、奥州追討の兵を集めるため、武蔵国六郷河口の大杉木に源氏の白旗を掲げた。集まった僅かな兵を率い戦勝祈願を行い奥州追討に向かった。(参照・『六郷神社史』六郷神社)


従来の説では六郷地区の様子は次のように語られている。 大田区史編纂室編集の「史誌」第36号に『江戸湾岸の中世史』という特集が載っている。

荏原地域を中心に座談会が開かれ、そこでは、『鎌倉時代、荏原郡に武蔵国の国衙領としての「六郷保」があり、大井郷の領主・大井実春が六郷保の保司(ほうし)に任じられていた。この六郷保は、永富・大森・蒲田・堤方・原・八幡塚の6つの郷によって構成されており、中心となる本郷は八幡塚だった』のことが語られている。
 
 また、平安末期頃には、より古い「平安海進」の時代には、東京湾から呑川に沿う低地帯に海が浸入し、「蒲田浦」やその奥に「堤浦」が出来ていて、当時、海は今の池上の辺りまで入り込んでいたとする論文が紹介されている。六郷保の村々は、この二つの入り海の周りに存在し、「これらの諸浦から江戸湾に出て漁を行っていたのではないか」というようなことも書かれている。上記のうち、現在町名として存在しない郷名の位置は、概略で「永富郷」は大森東、「堤方郷」は池上、「原郷」は多摩川、「八幡塚郷」は東六郷の各町近辺にそれぞれ該当する認識である。
 平安末期に六郷の地を支配していたのは大井実春氏で上記の「六郷保」が中心である。頼朝旗揚時に敵対した江戸氏は、同族の葛西氏の説得を受け頼朝傘下には入る。鎌倉幕府初期に、この地を防衛上に大変重要と考えた源頼朝により、荏原郡全体は江戸氏に与えられた。

多気大掾一族・配下の武士団
 
  江戸氏の配下に古来より八幡塚郷を守る多気大掾一族の武士団がいた。鎌倉時代中期に『行方』と名乗る武士団である。六郷と大師河原の両側に所領を持ち、彼らは平安末期頃に摂関荘船田荘の管理をしており、船運に強い一族であったようだが詳しいことは分からない。彼らは、古くより摂関家の「舟木田荘」または「横山荘」と言われる荘園の管理を任されており、河内源氏の祖である源頼信に名簿を出し配下となった(平忠常の乱)、その支流が六郷の地に住んでいた。この事は河内源氏の伝承となり、「前九年後三年」の戦いに向かう源頼義・義家の親子は、多気大掾氏に援軍の要請を頼むために六郷に立ち寄った。要請は船便で送られ、頼義・義家の親子は陸路を進んだ。奥州に到着すると3000人の援軍が待ち受けていた。何故、源頼義・義家親子は六郷に寄り兵士を募集したのか、それは六郷川岸にいた多気大掾氏一族(船運の仕事をしていた大井実春氏の系統か?)に、常陸の国への連絡を依頼するためではないかと考える(私見)

『前九年の役・後三年の役』
  わずかの兵力で追討に向かった源頼義・義家親子は「前九年の役」(1051〜1062年)、「後三年の役」(1083〜1088)の戦いを経て「武士の長者」「武士の棟梁」と祭り上げられた。

(注)六郷神社建立趣意書から
 文治五年(1189)、源頼朝は 奥州討伐を河内源氏の宿意と定め、源頼義・義家の故事に習い、この戦いが武士の棟梁源氏の戦いであることを示す事が主眼であるとする。そのために、源氏の白旗をつくり、六郷にて祖先の吉例に習い戦勝祈願を行いました。奥州合戦の時には、故事に習い源頼義・義家と同じ道を進軍した。
  奥州討伐の後、建久二年 (1191)、頼朝は梶原景時に命じて社殿を造営させたと伝わります。東国の数多くの伝承には、頼朝が造営したという神社伝承がありますが、ほとんどが鎌倉幕府設立後の伝承と思われ、源頼義・義家親子から続く平安末期からの伝承は六郷神社など少数と言えます。

平安末期頃に六郷河口には、常陸国の桓武平氏である多気大掾氏一族がいた。(私見)
 
  六郷に何故平氏がいたか不思議であったが、多摩川上流の八王子に摂関家の荘園・舟木田荘園があった事から年貢輸送のためであると考えられる。平安末期の東国武蔵国では、道が整備されておらず、年貢は船で運ばれたようだ。その船を操ったのが平氏の多気一族であろう。この時代、基本的に軽い年貢は陸路で、重い物は海路・船便で運ばれたようだ。特に朝廷に近い関西の瀬戸内海は、年貢納入に古くから瀬戸内海の船便が盛んであった。
 
  これら水運の手配をしたのが多気大掾氏一族であるかも知れない。多気氏は「平忠常の乱」でも源頼信に3000人ほどの兵を引き連れ参陣したと言われる。(頼信に名簿を出し家人となった)そのため、源頼義・義家親子も多気大乗氏への連絡をするため、六郷に立ち寄り源氏の旗を掲げたのではないか(私見)

−武蔵野国の荘園 鎌倉時代中頃ー
 1.稲毛荘(一条家預)年貢国絹393疋3丈・准銭78貫余
 2.舟木田新荘(一条家預)年貢零500段
 3.舟木田本庄(光明院忌日用途料)布520反
『中世水運市の研究』新城常三著 塙書房 平成6年刊

摂関領「舟木田荘園」とは……
 
  ここは、皇嘉門院藤原聖子から藤原忠通に譲られた摂関家領荘園であった(九条家文書)。南北朝期には京都東福寺に寄進されたが,東福寺に残る文和年間と貞治年間の年貢算用状によれば,荘内には平山郷,中野郷,由比野郷,大塚郷,南河口郷,北河口郷,横河郷,長房郷,由木郷,豊田村,青木村,梅坪村,大谷村,下堀村,谷慈村,木切沢村があり,当時の年貢高は、本荘38貫600文・新荘34貫300文の計72貫900文であったと言われる。参照・KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」(参照・八王子市資料)
    この荘園は木材が豊富な地であるらしく、年貢として木材は、多摩川を筏に組まれ多摩川河口に運ばれた。この物資の輸送を担ったのが、多摩川河口に住んでいたと思われる、常陸国の桓武平氏である多気大掾氏の支族ではないかと考える(私見)。
 
『新編武蔵風土記』 文政13年(1830)江戸幕府の昌平坂学問所地誌調所が編纂した官選地誌である。近世後期の武蔵国についての基本的資料。

  平安時代末期頃より多摩川下流(六郷)を治める一族は、常陸国の多気大掾氏一族であったようである。源頼義・義家の求めに応じ『前九年の役』、義家の『後三年の役』にも参陣したようだ。行方の祖は、鎌倉時代初期に多気大掾氏から分かれた多気清幹(きよもと)である(六郷 行方弾上氏のルーツ)。

多気清幹一族は、源頼信からの主従関係により源頼朝に信頼され、鎌倉時代には鎌倉幕府の御家人となり、香取海の行方郷を支配した。この一族は水運が得意であったらしく、一説には「行方水軍」とも言われており、 舟を得意とする武士のようで、あとの鎌倉の玉縄水軍の一部であったようである。玉縄水軍は戦国時代頃に北条早雲に吸収された。(地図

 羽田の「潮田文書」には、後北条氏から行方与次郎にあてた羽田浦水軍関係の書状など数点が伝存する。(大田区史)
 
鎌倉幕府では街道整備を進めた、第三代執権北条泰時は「下ノ道」に積極的で「朝比奈切通」開削を行った。これにより、六浦についた舟より鎌倉に物資を運びやすくなった。江戸湊よりの水運や常陸の香取海からの水運が容易になったと考える。平安末期の東国 

  行方一族も鎌倉へ向かう道の整備を進め、武蔵野国の御家人達も同じように道の整備を進めた。これが鎌倉に向かう鎌倉街道である。鎌倉に変事があればすぐに駆けつける軍事道路である。鎌倉幕府も整備を進め、北条政権頃に 奥州方面に向かう街道は、「上ノ道」「中ノ道」「下ノ道」が正式な街道と定められた。(この名称は室町時代頃と思われる)
 
  大田区には「中ノ道」と「下ノ道」が縦断している。「中ノ道」とは多摩川を丸子の渡しで渡り、中原街道・大山街道を経て江戸に入る。「下ノ道」とは「平間の渡し」で多摩川を渡り右に進路をとり池上・山王(八景坂)・南品川から両国を経て奥州に行く街道である。奥州に行くためには六郷周りは回り道になり、「平間の渡し」から平間街道と呼ばれる道を整備した。この頃は平間街道は海沿いの道であった(今より海水面が高かったようだ)。

鎌倉時代に行方を名のった多気大掾氏一族
 
  『所有観念を表す用語は「職(しき)」である、地頭職と表現された。この地頭職を保証された者は、鎌倉時代には御家人(ごけにん)とよばれた。(中略)一般には将軍(鎌倉殿)の従者として認められた者をいい、多くは武士だった。「沙汰未練書(さたみれんしょ)(14世紀に作られた幕府の法律書)では、その御家人を、1.昔からの開発両者であること、2.将軍から御下文(おんくだしぶみ)を賜り、所領の支配を認められた者、と規定している。』(NHKブックス〔868〕『武士の誕生 板東の兵どもの夢』関 幸彦著 日本放送出版会 1999年刊)
 
  上記の規定によれば、行方弾正は開発領主であり、平安末期より六郷の地に根付いた開発領主であったようだ。義家直系の頼朝が開いた鎌倉幕府成立後に御家人となり行方称を名乗った。小規模の武士団で、鎌倉幕府以前から武蔵の国の国衛(こくが)であった大井実春か、江戸重長に属した小武士団かも知れない。大井氏は鎌倉時代を通して六郷の地を支配し、また、この地は大森・永富・原郷・堤郷・蒲田郷など六郷保と呼ばれる広い地域であった。吾妻鏡の記載から(1256年)

行方一族の滅亡(南方三十三館の行方氏滅亡)

 鎌倉幕府滅亡後、孤立している六郷行方氏は従来からの水運を生かし水軍となる。玉縄衆とか羽田浦水軍と言われ、時の権力者に仕えた。鎌倉幕府滅亡頃に大井氏は九州に逃れ、薩摩の家臣団に編入された。残された多気大掾氏一族の行方氏は陸奥五郎の傘下に入るが、後に所領は康永4年(1345)に足利直義により、千葉県香取郡の大慈恩院に寄進される。大慈恩院は後北条氏が関東全域を掌握するまで存続する。 六郷の行方氏は後北条氏の陣に入り、所領は戻されたようだ。

北条氏康の頃の「小田原衆所領役帳」(1559) によれば、当時の行方氏は北条氏の客分待遇だった、行方与次郎(弾正)が蒲田、六郷、羽田から大師河原一帯を領していたとされる。 天正18年(1590)六郷の行方弾正直清は秀吉の小田原攻めの戦いで死亡する、氏族は武士をやめ円頓寺の住職となる。現在の蒲田にある円頓寺(上写真)である。
 
 天正十八年(1590)の小田原の役に際し、鹿島氏は大掾氏一族同様豊臣秀吉のもとへ参陣しなかったため、戦後その所領は佐竹氏に委ねられた。
天正19年(1591)2月9日、佐竹氏は南方三十三館の領主親子を謀略で佐竹城に招き寄せ殺した。領主のいない城を攻め落とし行方一族(三十三館)は滅亡した。のちに徳川家康は名門行方氏を惜しみ、下記の措置をしたようである。参照(戦国武将列伝Ω)

徳川家康が行方氏に残した措置
平氏系鹿島氏は1584年の33館虐殺と言う、佐竹義重の策で滅ぼされてからは、元の中臣鹿島氏の家臣らが遺児を立てて徳川家康にお家再興を願い出て、鹿島神宮三要職の1人として鹿島神宮神職に戻り、200石で明治維新まで存続しました。

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