ここは、皇嘉門院藤原聖子から藤原忠通に譲られた摂関家領荘園であった(九条家文書)。南北朝期には京都東福寺に寄進されたが,東福寺に残る文和年間と貞治年間の年貢算用状によれば,荘内には平山郷,中野郷,由比野郷,大塚郷,南河口郷,北河口郷,横河郷,長房郷,由木郷,豊田村,青木村,梅坪村,大谷村,下堀村,谷慈村,木切沢村があり,当時の年貢高は、本荘38貫600文・新荘34貫300文の計72貫900文であったと言われる。
その位置は、現在の八王子市東部から日野市一帯に比定されている。(参照・八王子市資料)
八王子市白山神社経塚から発見された文章「仁平4年9月日付如法経奥書」に「於武蔵国多西郡船木田御庄内長隆寺書写了」とあるのが初見である(八王子白山神社蔵)。
治承4年5月11日「皇嘉門院惣処分状」に「むさし ふなきた本 新」とあり,皇嘉門院藤原聖子から藤原忠通に譲られた摂関家領荘園であった(九条家文書)。建長2年11月の九条道家惣処分状2通によれば,前摂政一条実経家領として「船木田新庄 地頭請所」,右大臣九条忠家に「武蔵国船木田本庄 地頭請所」が譲られている(九条家文書)。
また延慶2年11月8日の報恩院殿備忘条々なる文書に「家領奉行人々,二条前中納言頼藤卿,村田庄 舟木田庄 地頭請所」と見え,摂関家はすでに地頭請所となっていた船木田荘を、下級貴族に管理させていたことが知られる(九条家家領文書)。この下級貴族が、前述の常陸の国の桓武平氏であろう。
その後,南北朝期には京都東福寺に寄進されたが,東福寺に残る文和年間と貞治年間の年貢算用状によれば,『荘内には平山郷,中野郷,由比野郷,大塚郷,南河口郷,北河口郷,横河郷,長房郷,由木郷,豊田村,青木村,梅坪村,大谷村,下堀村,谷慈村,木切沢村があり,当時の年貢高は本荘38貫600文・新荘34貫300文の計72貫900文であった。』
応永26年3月6日,東福寺雑掌は梶原氏・平山氏等「南一揆輩」が年貢を抑留したと室町幕府に訴えており(東福寺文書)、当時,舟木田荘の現地支配は梶原氏・平山氏等在地土豪にゆだねられていたことがうかがえる。この頃より荘名は見えなくなっており,彼ら中小土豪の侵略によって,荘園としての実体は失われていった』(WEB・八王子市史より)
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六郷河口に常陸桓武平氏の一族がいた。
この舟木田荘園は木材が豊富な地であるらしく、年貢として木材は、多摩川を筏に組まれ多摩川河口に運ばれた。この物資の輸送を担ったのが、古くより、多摩川(六郷)河口に住んでいたと思われる、常陸国の桓武平氏である多気大掾氏の庶流ではないかと考える。
前九年・後三年の役で奥州に向かう源頼義・義家親子が常陸の大椽・多気維幹に参陣せよとの連絡するため、六郷河口に源氏の白旗を掲げたと考える。後に行方弾上を名乗る一族であると考える。(私見)