●奥州に向かう出発の地、六郷神社の建立…… 鎌倉時代になると源義家の曽孫である源頼朝が、『文治5年(1189)源頼朝もまた奥州制定のみぎり、祖先の吉例にならって戦勝を祈り、建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営しました。今なお境内に残る大きな手水石は、このとき頼朝が奉納したものであり、神門前の太鼓橋は景時の寄進と伝えられます』(『六郷神社誌』平野順治編 六郷神社 平成19年刊)。太鼓橋は貴人のみが渡ることが出来る、景時は頼朝を意識したのかも知れない。
● 行方弾正(なめかただんじょう)は鎌倉時代中期以後に六郷一帯を納めた。 六郷神社には八幡塚砦があり、のち八幡塚村名前の由来となる。行方氏は鎌倉・室町幕府以後は、上杉家から北条氏へと移り領地を支配したが、北条氏滅亡により代々熱心な日蓮宗徒であった行方弾正直清は戦死、彼の弟は戦火を逃れ、池上本門寺を頼り出家して日芸上人となり、行方一族の菩提を弔うため園頓寺(円頓寺)に戻り、中興の祖と言われた。園頓寺の開山は九老僧日証上人(池上大坊の開基なり)、寺の場所は行方氏の館である。北条氏の文章に見える「六郷殿」は行方弾正氏を示すと考える。 (参照・『姓氏家系大事典』(第三巻)太田 亮著 角川書店 平成7年刊) 奥州合戦の際、掲げられた河内源氏の旗(左) 『源義家朝臣旗図』松平定信 『集古十種』より、国立国会図書館デジタルコレクション蔵 拡大表示 この本は江戸時代に刊行された古美術書である。松平定信を中心に学者や絵師が参加して作られた。寛政12年(1800)から刊行され全85冊になったようである。絵と共に寸法も記載されている。旗は長さ9尺4寸5分15線、幅1尺6寸9分63線である。 右写真は、現在の鶴岡八幡宮に掲げられた扁額 、鳩は頼朝を助けた縁の鳥であり、八の文字が鳩を表している。鎌倉の銘菓サブレーの形。