平安期の船運(想像図)
  平安時代末期の東国は、今とちがい霞ヶ浦は外海に繋がる内海であり、その面積も東京湾を上回る大きさがあった。この頃は蝦夷の国である奥州と出羽に備えるため、常陸の国は防御・補給基地として重要視された。内海は輸送路として発達した。陸路より大量の物資が運べたためである。
  鎌倉時代には奥州は鎌倉幕府の支配となり、陸上の道は下ノ道(大田区の平間街道)が、鶴岡八幡宮から海岸線まで繋がり発達した。第三代執権北条泰時は鎌倉より「朝比奈切通」を抜ける道を広げ、六浦までつなげ、安房(千葉)へ渡る「水上の道」と奥州に行く金沢の海岸通りの「下ノ道」を開いた。

〔注)赤い番号は那珂湊から外海を航海する航路であり、内海の航路はいくつもあったと考えられる。

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