武蔵野台地と主要道路(大田区部分)江戸時代から昭和時代頃まで

古代から鎌倉街道の詳細
・・・江戸時代の街道

地図イラスト
 台地(下末吉面)・30〜40M  斜面・10〜20M
 台地(武蔵野面)・20〜30M  谷底低地・10M
 砂州  自然堤防
 氾濫源、三角州、海岸低地・0〜10M  開拓地、埋立地、盛土地
 旧河川、多摩川、呑川  右上部分は昭和島、京浜島、 城南島

《大田区 江戸時代、街道は時代変化により役割が変わる》

番号ー1、旧池上道(平間街道、古東海道)
 
江戸時代、東海道が造られる前の古東海道は、「旧池上道」である、別名は「平間道」「古東海道」とか品川まで行けることから「品川道」とも言われていた。多摩川を番号ーBの「平間の渡し」で渡る。また、『延喜式』の記載では、沼部まで行き「丸子の渡し」(番号ーA)を越えたらしい。多摩川沿いに道があったのではないか。「平間の渡し」を渡ると、この道は鎌倉までつながり、鎌倉時代は「下ノ道」と言われた重要な街道であった。反対方向の大田区からは、山王から大井「三つ叉」をすぎ、南品川を経て品川区高輪までつながっていた。先は現在の国技館辺りで曲がり奥州まで行けたという奥州街道に繋がった。

 江戸時代になると、池上街道(平間街道)は中原街道と東海道をつなぐ道として、東海道往還に不浄の鈴ヶ森を避けて往来する脇街道として使われ始めた。また江戸時代の中期になると、世の中が平和になり、池上本門寺や近隣への参拝道となって「行楽の道」として発達を遂げた。この行楽の道を支えたのが、日蓮宗を始め各講中が立てた「道標」である、参詣の導く目的のため主要街道より脇街道に多く立てられた。

番号ー2、中原街道(奥大道、相州街道、お酢街道、江戸間道)

江戸城・虎ノ門から平塚(平塚御殿)まで行く道、この道も鎌倉街道のひとつであった。丸子の渡しから川崎の小杉まで古い東海道と一致していた。日蓮や徳川家康もこの道を通り武蔵野(大田区)に入った。中原街道の名称になったのは、1604年に江戸幕府により整備されてからである、それまでは、相州街道、東海道などとも呼ばれた。多摩川の渡しは「丸子の渡し」(番号ーA)である。

 江戸時代になると、中原街道は虎ノ門から真っ直ぐ平塚(神奈川県)あたりまで行けることから家康が好んで使ったらしい。その後は江戸への物資運搬として重要な街道になった。

(注)奥大道とは大田区の中原街道である、鎌倉時代は「中路」と呼ばれて、奥州征伐に向かう源頼朝が進軍した街道である。


番号ー3、田無街道

池上道から臼田坂を登り、荏原町、目黒、田無まで繋がっていた嶺道である。古い地図では「目黒より池上道」となっている。地元では「田無街道」や「澤田道」とも言われたらしい。池上道と中原街道をつなぐ古い道で、東京府の府道56号線となっていた。荏原町あたりから中原街道につながり、駒沢、世田谷を経て田無に至る。この道の左右坂道が俗に言う九十九谷である。参考「入新井町史」昭和2年(1927) 入新井町史編纂部刊

 大田区史の記述では、田無街道を「大森田無線」と紹介してる。『大森美原通りを起点として池上通りへ、池上通りをさらに西へ、現大田区役所前より臼田坂を登って進み、現在の第二京浜国道を横切り、荏原町駅手前で、「都106号」大井玉川線(品川道)に出る。この五叉道を北西に曲がり、目黒区に抜け、世田谷区の東部に進むというルートであった』 大田区史」大田区史編さん委員会編集 大田区発行 平成4(1992)年。


番号ー4、池上道(目黒道)
 
池上本門寺の「総門」前から左に裾野にそって行く道も池上道である。日蓮宗の各寺を横に見ながら進むと第二京浜国道につきあたる。国道を越えて進む、このあたりからは古い呑川低地である。日蓮宗「林昌寺」「子安八幡神社」をすぎると新幹線ガードが見える、このから左に行くと呑川の「道々橋」へ、「長慶寺」右の坂を上がると雪が谷の嶺道となる、現在の都立荏原病院バス通りで古くは九品仏まで行けたが、現在は中原街道で行き止まりとなっている。

 池上道に沿って 新幹線ガードを潜るとすぐに猿坂が見える、登ると嶺道に出る。歩くと環七夫婦坂を経て荏原町(道標)をすぎて「目黒不動」までつながっていた。そのため「目黒道」とも言われたらしい。この辺りの台地が貝塚である、明治の冒険小説等で有名になる、そのため荒らされ、正式な考古学発掘がされないうちに荒廃してしまった。

番号ー5、東海道
 
江戸時代慶長3年(1603)、幕府によって造られた東海道は海岸線に沿った街道である。江戸時代を通して交通の大動脈になり、このため池上道、中原街道は脇往還となった。東海道の出発点は日本橋だが、実際は高輪大木戸にて江戸外となった、見送りの人(女性など)もここで別れを言った。男は六郷の渡しあたりまで見送った人もいた。

番号ー6、筏道
 
江戸時代には「筏道」と言われた多摩川沿いの古道である、青梅から筏流しで羽田まで来た「乗子」(のりこ)は、次の日に歩いて青梅まで帰った道である。いつからの道か分からないが、川沿いに道があるのは自然で、羽田近辺には「行方水軍」「古川薬師(安養寺)」「満田郷」の伝承もある、それ故、古くから道があったのではないかと考える。昭和28年(1953)発行の『大田区史』に添付の「土木概要図」では、この道は指定府県道17号となっている。ここからも「池上道」へ行ける道があり、府県道103号と言われ堤方町あたりでつながった。今も当時の雰囲気を残しているのは、鵜ノ木八幡社前の道である。

番号ー7、産業道路
 
昔は国道1号線だが、現在は国道15号線となり、大森警察署の所から別れ大鳥居までは国道131号線、それより都道6号線となり大師橋を渡る。環状7号線と交わる付近は、古い東海道の雰囲気が残っている。内川の橋の袂より海老取川に架かる弁天橋までは羽田道(羽田街道)と呼ばれた。

番号ー8、第一国道(第二京浜国道、二国)
 
昭和9年(1934)頃より計画され、幻の東京オリンピック(昭和15年開催予定)に間に合わせるため、日本を訪れた外人を横浜から帝都東京へ運ぶため計画された国道である。昭和11年(1936)10月に6年計画で着工され、戦後完成を見た。計画当初の第二京浜国道は、現在のルートと違うようだが、少なくとも現在の新幹線陸橋の馬込坂坂上までは、既存の道路を拡張(幅25メートル)して造り、道のない坂上から一気に本門寺裏あたりまで、台地を削り取って道を造ったようだ。そこから多摩川までの既存の狭い道は、住宅を立ち退かせ広げて完成した。多摩川までは昭和16年(1941)頃には完成していた、木造橋であったが戦後に鉄橋になった。
地図を横に走る道は、環状7号線 9番(上)と環状8号線 10番(下)である。

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