江戸の刑場、鈴ヶ森で処刑された八百屋お七、丸橋忠弥の不思議な物語


鈴ヶ森刑場について
 白井権八浮世絵鈴ヶ森刑場は、磐井神社からつづく海岸線松並木ぞいにあった。海沿いの景勝の地であったが、慶安4年(1651)に高輪大木戸にあった刑場が、ここに移転してからは忌み嫌われる場所になった。
 刑場の大きさは、間口40間(72メートル)、奥行き9間(16.2メートル)の大きさであったが歴史の流れにより現在は跡形もなくなった。(場所は品川区に当たるが紹介する)
  残されたものは「題目碑」、これは元禄の頃に日蓮宗日顕上人が立てた。また他に、磔柱を立てたと思われる四角い溝のある台石と火あぶり用の鉄柱丸溝台石がある。昭和29年1954)11月3日東京都の史跡指定を受ける


鈴ヶ森で処刑された罪人
 白井権八浮世絵由井正雪と共に幕府転覆を謀った丸橋忠弥、 江戸時代前期の浪人平井権八(浮世絵では白井権八)、天和3年(1683)の大火で知られる八百屋お七は火あぶりとなり、その遺体は当時刑場の管理寺である密蔵院に飛んでいったと言われる。同寺には「八百屋お七地蔵」がある。また、盗賊の日本駄左衛門、義賊の鼠小僧などが処刑された。伝承では人の死骸に群がる野犬などが集まり、昼なお暗い陰惨な場所であった。そのため、婦女子はこの場所を嫌い、東海道を江戸に向かう場合には青物横丁あたりから池上道(平間街道)に出て、南品川から高輪に行く道を選んだ。現在、大森山王の日枝神社あたりから南品川に向かう曲がりくねった道がそれである。 平井権八 八百屋お七 画題「松竹梅湯嶋掛額」絵師・一勇斎芳年(1797〜1891)版元・松井栄吉、明治18年(1885)
   月岡芳年が描いた錦絵(竪二枚)「八百屋お七」である。半鐘を打ち鳴らすため、火の見櫓を登るお七の可憐な姿が哀れである。


明治3年(1870)に鈴ヶ森刑場は廃止された。付近の大経寺には、鈴ヶ森刑場で発掘されたドクロや処刑の絵等が保存されている。 (
参考資料 「品川区口碑伝説」品川区口碑伝説編集委員会篇 品川区教育委員会刊 昭和33年)

鈴ヶ森刑場の火刑を描いたF・ベランの画
 左後方に仏像が見える、鈴ヶ森の記述に仏像があったと書かれている。このことからも画は鈴ヶ森であろう、幕末に刑場を外国人が実際に見ることが出来たかどうか不明である。
『アンベール幕末日本図絵 上』高橋邦太郎訳 雄松堂書店刊 昭和44年(1969

放火の罪で捕まった彼女は、鈴が森で火刑になりました、天和3年(1683)のことです。不思議なことに江戸の庶民は、彼女の娘心を哀れみ、地蔵を祀ったとのことです。八百屋お七は実在していたのです。
『江戸末期頃の鈴ヶ森付近』と国立国会図書館の説明にある
 
写っている人力車が明治3年3月の発明であるので江戸末期ではなく、明治3年から4年頃と推察される。正確な撮影位置は不明だが、左側に海が見えることから大森の穴守神社や森ガ崎温泉に向かう東海道かもしれない。写真の人力車も車夫が二人で引いており、穴守神社へ急ぐ処かもしれない。東海道は、その後拡張されて第一京浜国道(国道15号線)となった。上記の浮世絵のように大森の磐井神社あたりも江戸時代は海に面していた。(写真・『旅の家つと』12号 国立国会図書館 所蔵)

人力車は明治3年に和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助の三人により発明された。彼らは東京府により、人力車総行事に任命された。明治4年には爆発的に普及した。彼ら3名は専売特許を目指したが、明治5年に専売特許は認められず一時金として150円が与えられた。また総行事に与えられた車税徴収の権利なども、明治6年に「僕碑馬車人力車等諸税規則」が施行され取り上げられた。発明者の旨味は全てなくなった。日本では人力車は観光の一つであるが、インドでは現役の交通手段であるらしい。(『江戸・東京を造った人々2』「東京人」編集室編 ちくま学芸文庫 2003年刊)
 

江戸名所図会「鈴の森」天保5年(1834)から7年(1836)、江戸を目指す大名行列が鈴ヶ森の脇を通過している。東京湾には海苔のヒビ(海の中に立てる木の枝)が見える巻2 国立国会図書館デジタル化資料蔵


文久三年(1863)頃、京に上洛する将軍家茂の大名行列を描いた御上洛東街道の一枚、鈴ヶ森刑場を通過する、中央の籠に乗る源頼朝が将軍家茂である。浮世絵に徳川将軍を描くことは禁止されており、源頼朝に仮託して描かれる。御上洛東街道を見る